処暑:死に水取り
私が死に水取りを見たのは今から何十年も前のことだ。
だから以下の話は私の記憶と親族の話を接ぎ合わせたものである。
その日の未明に同居していた大叔母が亡くなり、私は葬儀を取り仕切る女達によって屋外へと追い払われていた。単に邪魔だったというより、神経質な子供であった私を慮ってのことでもあったろう。腐敗を防ぐため氷柱が何本も立ち並べられ、温度計の目盛りが朝から伸び悩んでいる薄暗い部屋に何かの拍子で死人と取り残されたりしたならば、その後数ヶ月は私が魘され寝小便に悩まされたことは想像に難くないからだ。
死に水取りは、現在では勿論、当時でも珍しい存在だった。声を掛けられて見上げた私が、蒼穹を背にして立つ影法師のような男を葬儀の参列者だと誤解したとしても責められはすまい。ひょいと持ち上げられた帽子に応えて叔父を呼んでくると、彼は頭の先から爪先まで黒尽くめの男を見るなり舌打ちした。
「死に水取りか」
「さようでぇ」
「ちぇっ薄気味悪い」
吐き捨てるように言っても、死に水取りが来た以上迎え入れねばならない。
死に水取りとは、その名の通り死に水を取る者である。人が死ぬと、どこからともなくやって来て、亡骸から末期の水を取る。死者が思いを残すことなく逝くためには、その儀式が弔いに欠かせないとされていた。
しかし、寺社のように明確な由緒を持つわけでもなければ、誰からの紹介もなく死の匂いを嗅ぎつけて訪れるような得体の知れなさもあり、近代になるにつれて世間一般から忌み嫌われるようになっていたようである。よって、叔父の無作法な反応は一般的なものであったといえる。
叔父が渋々死に水取りを遺体の安置してある部屋に通すと、枕元に腰を下ろした彼は存外美しい所作で亡骸に向かって一礼した。その頃には家中に死に水取りの来訪が知れ渡っていたようで、家人が次々と部屋から溢れ返らんばかりに詰め掛けていた。
死に水取りは衆目をものともせず、隣に置いた背嚢から硝子壜を取り出した。それから色々と細々した物を出して並べ、最後に懐から黒い袱紗を取り出すと頭上に掲げて一礼した。おもむろに開かれたそれに包まれていたのは大きな羽根であった。その美しさに何人かは息を飲んだ。長さは大人の上腕部くらいはあったろうか、色は青みを帯びて病的なほど白かった。
「それでは真に僭越ながら死に水を取らせて頂きます」
再度頭を下げてから死に水取りは亡骸ににじり寄り、顔を覆っていた白い布を取り去った。長患いの間に痩せこけ、別人のように老いさらばえた顔が露わになった。病魔との闘いに終止符が打たれたことにより、落ち窪んだ眼窩や皺だらけの口元はついに平穏を取り戻したようにも見えたが、部屋にいる大部分の人間と血が繋がっており、一時は君主として当家に君臨していた大叔母の面影はとうに失われたままだった。
死に水取りはもはや開くことのないその唇を丁寧に羽根で触れた。世界一の美女の唇を紅筆で染めるときのように、細心の注意を払って輪郭をなぞり、内側を埋めるように何度も往復させる。いつしか死に水取りの額に玉のような汗がびっしりと滲み、彼が時折右手を持ち上げて羽根の軸を左手に持った壜の口に差し込むと、薄青い硝子壜にぽとぽとと水が滴り落ちた。その音と遠くから聞こえる蝉の声の他は何も聞こえなかった。
壜が七割方満たされると、死に水取りは死者の顔を元通りに覆い、またもや平伏してからするすると元の位置に戻った。私たち一同は固唾を飲んで死に水取りの次の言葉を待った。
「ではこれから水中花を投じさせて頂きます」
死に水取りは先刻案内を乞うた際の崩れた口調が嘘であったかのようにきびきびと喋った。
「皆様ご存知かと思いますが、この花は末期の思いに応じて姿を変えるので御座います。何らかの未練があれば花咲かず、心残りなければ花開きます」
思い残すことなどなかったろうよ、と前列に座っていた数人の男達が皆に聞こえるようにして囁き交わした。もし開かなかったらどうすると誰かが素頓狂な声を上げ、幾人かが居心地の悪い笑い声を漏らした。私は隣に座っていた母の手をきつく握りしめた。
「大丈夫、開くに決まっているのだから」
私の緊張に気づいたのか、母は私の顔を覗くと低い声で窘めた。母の落ち着いた声音をもってしても、私の視線を数列隔てて向き合っている死に水取りから動かすことはできなかった。
死に水取りは目の前に広げてあった懐紙から何かを拾い上げ、壜の中に滑り込ませた。
細長い黒い種のような物体は、死に水取りの指先から離れ、水に投じられるや否やぱっと展開した。瞬く間に白い透かし編みのような花弁が水の中で触手のように広がり、薄青い硝子壜の中でゆらゆらとたゆたった。
……ほら言ったろう、と暫しの沈黙の後、誰かが呟いた。それを機に集まった親族は一斉に喋りだした。死に水取りは喧騒の中立ち上がるとしめやかに辞した。私は死に水取りの後を追った。
「何か言いたいことがあるならさぁ、さっさと言いなよぉ」
礼金と小皿に一山の塩を受け取った死に水取りを尾けて表に出ると、彼はおもむろに振り返った。先刻までとは一転、態とらしいほどに間延びした声である。
「ずっとついてこられるとぉ、俺があんたを攫ったことになっちゃって困るんだよねぇ」
あの、と私は立ち竦んだ。逡巡する間、死に水取りは掌に盛った塩を獣のように舐めながら待っていた。
「ほんとに大ばあちゃんには思い残すことがなかったの?」
「そりゃぁまた何でそんなことをぉ?」
「だって、大おばあちゃんはずっと兎を探してたんだ」
「はぁ? 兎ぃ?」
訝しげな死に水取りに向かって私は説明した。ここ数年のうちに大叔母の記憶と人格は急速に、しかも確実に瓦解していった。かつては他人と己を厳しく律していた知識も作法も崩落し、最後に彼女の心を占めていたのは兎のことのみだった。誰彼ともなく縋っては兎が盗まれたと訴える。幼子のように泣いては何処にも存在しない兎を探してくれるように強請る。私も大叔母に手を引かれ、彼女の気が済むまで屋敷の内外だけでなく近辺一帯を捜索したものだ。
「兎ねぇ」
傾きかけた日に照らされつつ、じっと私の話を聞いていた死に水取りは吹き出した。
「金や宝を盗られたって疑心暗鬼になるのは多いけどぉ、兎とはねぇ」
「だから絶対に花は咲かないはずなんだ」
私が言い募ると、死に水取りは鳥のように首を傾げて道の端に座り込んだ。手招かれた私がおずおずと近付くと、彼は背嚢から先程の壜を出して見せた。あたかも細工物のように繊細に整った白い花が水の中で揺れている。
「でもほらぁ花が咲いたでしょぉ?」
私が躇いつつ頭を上下させると、死に水取りは声をひそめた。
「まぁほんとは花の部分は余興なんだよねぇ。本当に未練がある奴の死に水は見た瞬間にわかるからさぁ」
汚く濁って飲めたもんじゃない。そう口にするなり死に水取りは壜の栓を開けると、中の液体を飲み下した。私は驚愕して、死に水取りが濡れた唇を手の甲で拭うのを見ていた。
「うーん、やっぱりこれも同じだねぇ。『もうここには居られない』ってさぁ。もうあんたのばあちゃんは兎のことなんて気にしちゃあいないよぉ」
「……もうここにはいられない?」
鸚鵡返しに言うと、死に水取りは我が意を得たりとばかりに大袈裟に頷いた。
「そぅ。亡くなった人は大抵そう言うねぇ。死に水を飲むと聞こえてくるわけよぉ。ま、信じられないなら坊やも飲んでみたらいいよぉ」
差し伸べられた壜の口を凝視しながら私は僅かに後ずさった。まだ硝子壜の中には幾許かの水が残っており、その中に花がふわふわと頼りなく浮かんでいるのが見えた。正面から見る壜の口は黒い輪状になっており、それが徐々に広がって私を吸い込むような錯覚を覚えた。先程から一匹だけで粘っていた蝉の声が突如として途絶えた。
ここから私の記憶は途端に曖昧になる。
結局のところ、私は大叔母の死に水を飲んだかもしれないし、飲まなかったかもしれない。怖々と一口含み、死に水取りが言ったように耳元で泡がはじけるようにひそやかな死者の声を聞いた……と言うとその通りであるような気もするし、いや臆病風に吹かれ見知らぬ男が口をつけた壜に触れさえしなかったのだと言われればそうであった気もする。
またあれは死に水取りが世間知らずの子供を即興で揶揄したのであり、死者の声などそもそも聞こえないものだと懇切丁寧に説かれれば、さもあらんと頷くかもしれない。
とにかくも、あれから何度か家から葬式を出し、死に水取りのことが家人の口の端に上ることもあったが、彼が再び訪れることはなかった。他所でも死に水取りの姿を見たことはないから、弔いの風習が簡略化されると共に死に水取りの風習も廃れたのであろう。
しかし、もう一度機会があるならば、私は差し出された死に水を飲むだろう。
本当に死者が生前心に留めていた事柄すべてを忘却し、『もうここには居られない』と一目散に彼岸に去っていくというのならば、それはけして悪いものではないという気がするのだ。