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春分:通勤バス、その後

 温暖化と世間で叫ばれているように、今年の桜の開花は例年に比べてずいぶんと早かった。

 バスの窓からは、街のそこここに春の朝の柔らかい光に包まれて、淡くも爛漫と薄紅の花が咲き誇るのが見える。

 ずっと不思議に思っていた。啓蟄を過ぎ、周囲の空気がぬるむにつれて妙なものが現れる回数が多くなる。皮膚を撫でるゆるやかな風が、日に日に大きくなるざわめきの気配を伝える。

 それは、まるで花に呼ばれたかのよう。


 ――それをどうするつもりだえ。


 響いた声に、ガラス越しの景色に――より正確に言えば、花の下の人ならぬものたちの宴会に――向けていた視線を戻した。車窓をこするほどに張り出した枝から、たおやかな白い腕が伸び、持っていた猪口を会釈さながら挙げるとひらり、戻ってゆく。


 ――まぁたいらぬものをかかえこんで。


 咎めだてする声も、今日はすこし甘い。春の陽気は、いつもの苛烈な気性をとろかすほどにのどかだ。首を傾げて、視線をさきほど前の座席の男性の肩から摘みあげたものを眺めた。

 きゅるきゅる、と早送りしているテープのような音を立てて、指先で灰色の糸屑にも似たそれは身悶える。

 すり減って、次第に消えていって。輪郭もおぼろに。抱え込んだものも零れ落ちて。最後までうつしよに噛りついている残滓。

 だというのに、どんなに耳をすましても、もうなにも聞こえない。


 ――ことばにもならぬ想いだけが残ってどうしょうもないとな。


 最初のものより剽げた声とともに、膝の上に広げた本の頁がぱらぱらと捲れた。


 ――なんのために残ったものやら。さっさとどこへなりとも消えてしまえばいいものを。

 ――その消え方さえもわからんから、こうもなるんじゃろ。


 なにがそんなに気にかかったのか、原型も失われては推しはかることもできない。それほど残したい想いとはいかほど、とつい目を伏せた。喜怒哀楽にはじまって、恨みつらみや愛慕の情。かたちがなくなっても、ありつづける情動。

 なんのためにいきているのか、と。

 裏返しの生と死の距離がぐんと狭まる時季に問い続ける。このようなものを残していくためか、それとも残せることこそ生きた証か。


『この花の一枝のうちに百種の言ぞ隠れるおぼろかにすな』


 古歌が浮かぶのに、思わず口元を幽かにゆるめた。

 花に招かれて出でるものたちも、現世に絡みつく想いの糸屑も、なにかを伝えようとしていることに変わりない。

 すべてを掬いあげることなどけして出来やしないが、摘み上げたものくらいは。

 瞼を閉じて、指先に意識を集めた。

 絡まりをほどいて、すみずみまで伸ばして平らかに、それから輪郭をなぞるように。徐々に想像した通りの容へと。


 ――アレ、はなびらだね。

 ――桜じゃ。


 両脇から聞こえる声に目を開ける。指先に在るのは、白に紅をひとしずく滴らして淡めた色合いのひとひら。集って咲き満ちる態はいともたやすく息を奪うものであるけれど、たったひとつの花片でさえも、また凛としてうつくしい。


 おぼろかになどできようもない。


 そっと頁の間に落とし、ぱたん、と軽い音を立てて本を閉じた。停留所に近づくにつれ、荷物を纏めて立ち上がる。


 ――どうしてあんな。


 興味深げに訊かれるのに、「花はいつもこたえの形」と詩の一節をバスの振動に紛れて返した。

 遺された想い、誰かのこたえ。

 紙の狭間で文字に囲まれ、爪先ほどのひとひらは、色を失わぬまま。いにしえから言の葉を尽くして謳われる、花の季節は過ぎてゆく。



引用:万葉集―藤原広嗣の和歌

    『ソナチネの木』岸田 衿子

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