春分:桜を愛するサラリーマンと通勤バス
少し遠回りになるけれど、バス停に向かうのに霊園の桜並木の下を通るのが彼の近頃の日課となった。桜の開花の時期はいつもそうすることに決めている。
通勤に家を出るのが朝まだ早い時間ということもあって、辺りに他の人影はない。ひとりで歩いていると、いつもは気が付かない桜の匂いが空間に甘く充満しているのがわかる。深呼吸して、肺の奥底までその香りを取り込んだ。とてつもなく贅沢だと思う。
数日前までぽつりぽつりとしか咲いていなかったというのに、今では枝を撓わせるほどに無数の花がついている。目の端には、風もないのにはらはらと散り行く花弁が映った。その瞬間、まるで時間が止まってしまったような錯覚に陥る。
世界に存在しているのが己だけのような、瞬きの間に別世界に移動させられてしまったような奇妙な感覚。そんな雰囲気に人を呑みこんでしまうところが、このはかなくて、つよい花にはある。
花といえば桜、というのもさもありなん。とにかくにも圧倒的だ。
むかしから人がうたい、たたえ、ついには神様に花の寿命を延ばすよう頼んだりしたのもわかる気がする。死ぬならこの花の下で、というのも、常識や理解などをこえたところで、すとんと納得してしまう。
感嘆に口を閉じるのを忘れたまま彼は頭上に広がる薄紅の雲を見上げて、不意に肩が凝っていることに気がついた。最近慣れないパソコンとの格闘で目を酷使しているからだろうか。鈍痛をおぼえたほど肩が重い。
今日は早めに切り上げて、ゆっくり風呂につかろうと決意する。そのあとで、妻と一杯やるのもいいかもしれない。あれでも妻はかなり、いや彼よりも呑めるくちだ。それだったら、帰りもまた通るこの道の様子を肴にして、花見酒と洒落込もう。夜桜というのは、また言い知れぬ凄みがあるものだ。
そんなことを考えながらいつものバスに乗り込んだ。大学を終点に持つこのバスは、学生の使用客も多い。彼自身はラッシュを避けて早めの便を使っているので、朝はそれほど学生と遭遇しないが、今日は前から二番目の座席に薄紅色のシャツを着た若い女性が座っていた。
化粧っ気のない顔は女性というより、まだ少女といったほうがぴったりくるような幼さだ。近頃は通学するにも化粧をばっちりしている女の子が多いようだから、彼女はもしかして少数派なのかもしれない。しかしそんなものが必要ないほど整った顔立ちの少女だった。彼は女性の美醜についてあまり語る言葉を持たないが、一昔前の、たとえば彼女と同じくらいの年齢だった頃なら、遠くから見かけただけで胸をときめかせてしまっただろうと思う。恋文だって書いてしまったかもしれない。
残念ながら、というべきか、そんな日々がはるかに霞んでしまった現在では、彼は軽く会釈をして彼女の前の席に座るだけだった。
誰にも言ったことはないが、バスでは一番前、つまりは運転席の反対側の一人掛けの席が、彼は好きだ。幼い時分から、そこが空席になっていたら他の席が空いていても必ずそこに座ることに決めていた。大人気ないと思いつつも、この歳になってもその習慣は続いている。なにより眺めがいいからだ。バスは前面一杯が窓になっているから、他の車とは比べ物にならないくらい視界が広く高い。
しかし、この席は他の乗客にも人気なようで、空いていることがなかなか無いのだった。これまでずっと、そこに座っている人は、彼と同じ理由でその席が気に入っているのだと信じていたのだが、つい先日、そうではないらしいと彼はやっと思い当たった。出口から一番近い席だから、早く降りられるがため、という乗客が大多数のようなのだ。
けれど、彼のように眺めが好きだからという人も、その中にいるのではないかと、彼はひっそりとまだ信じていた。そういう人がいてもいいじゃないかと思う。
バスがゆっくりと方向を変えて、会社の最寄りのバス停に向けて交差点を曲がったところで彼は手を上げてブザーを押した。
それにしても今日は肩凝りがひどい。今のわずかな動作が辛いほど、肩が重かった。
「あの……」
声を掛けられたと同時に軽く腕を叩かれて、彼は慌てて振り返った。勢いに驚いたように、少女が手を引いて、彼をじっと見る。彼は少しうろたえて、なんでしょう、と聞いた。彼女のシャツの色は、近くで見てもさきほどの桜にそっくりだ、などという全く関係のないことに気がつく。
少女は、眉を寄せて、困ったような、それでも少し笑い出しそうな複雑な顔をして、失礼かもしれませんが、と続けた。
「ついてますよ」
そして、彼のトレンチコートの肩から何かをつまみあげる仕種をした。
「あっ、どうも」と、彼はいやにどぎまぎした気分のまま、焦って礼を言った。
「いえ」一旦切って、言葉を探すように小首を傾げてから少女は言った。「桜が咲くと、とにかく落ち着かないものですから」
ぼんやりと立ち止まっていたから、花びらが肩について、ここまで来てしまったのだろう。
「あ、ありがとうございます。そうですね、ええと、あの花は、なんというか、そわそわさせるというか、なんだか、人の目を吸いつけて離さないというか、そんなところがありますね」
口にした途端、彼は自分の言葉の取り留めのなさに、恥ずかしくなった。ええ、と少女が如才なく微笑んでくれたのが、せめてもの幸いだ。
ちょうどバス停についたので、それ以上無理に会話をひねりださないで済む前に別れられることに、彼は心から安堵した。もう一度礼を言って、バスを降りる。
少女が窓から軽く会釈したのに、なんとなく嬉しくなって手を振り返した。年甲斐のないオヤジだと思われてしまっただろうか。しかし、もう会わないだろうし、最初に会釈したのは向こうだし、などと詮もないことを考えながら数歩いったところで、彼は立ち止まった。試すように回してみた肩は、信じられないほど軽くなっている。
まるで先程までの苦痛の元が、きれいさっぱり取り除かれたように。
少女の指が、何かをつまみあげたように。
脳裏で映像と言葉が共に閃いた。
「……憑いてます、よ……?」
…………まさか。
彼は思わず振り向いて、走り去ってゆくバスを見送った。足元では、どこかからやってきた花びらが何枚か、車の行き交いに合わせてくるくると小さく舞っている。