立冬:山茶花の掌
霜寒の候、ますます御健勝のこととお喜び申し上げます。いかがお過ごしでしょうか?
先日お尋ねいただいたことにお答えしようと、やっと筆をとりました。お返事が遅くなってしまってごめんなさい。あなたにしてみたら、きっと電話やメールですぐにでも答えを知りたかったことでしょうに、私は、このことは、どうしても手紙でお返事したかったのです。
私が、最初に、奇妙なものを見るようになったきっかけについてでしたね。あなたも最近、自分も「見える」のではないかと疑うような出来事があったのだとか。あなたは家族の中でも、そういうものの気配に疎いようでしたので、メールを頂いたときには、驚き半分、でもあとの半分は、やはり、という気持ちになりました。あなたは自分の年齢からも、こんなに遅くに見えるようになるのはおかしいと思っているようですが、私も実は見えるようになったのは、そんなに早い時期ではないのです。
あれは確か中学校二年生の秋のことです。中学校への通学路に山茶花がずっと植えてあるお宅があったのを覚えていますか。ちょうど二丁目の坂道の脇で、今頃の時期は花が坂を上っている間、ずっと匂っていたものです。
その垣根から、ある日、手が一本突き出されていたのです。
枯れ枝かと最初思ったほど、老いさらばえた手でした。私は山茶花のむっとするほど強い香りのなか立ち竦んで、まじまじと眺めたように思います。それまで何の変哲もなかった道に、突然手が現れていたのですものね。そんなに大きくはなく、筋張ってはいましたが、女性のもののような印象を受けました。掌は軽くくぼんだ状態で、上を向いていました。垣根から道に出ていたのは、手首から数センチほどまでで、それ以上は濃く茂った山茶花の葉に邪魔されて見えません。私は思わずしゃがんで、木の根元の方から、垣根の向こう側に立っている人の姿を見ようとしました。それでも枝を透かした向こうには誰の姿も見えず、私はその日はそのまま走って帰りました。
そんなことがその後何日か続いたのです。そのうちに私はその手がそれほど恐ろしく感じられなくなったのです。妙に聞こえるかもしれませんが、早々に慣れてしまったというか。触れようとは思わなかったのですが、しばらく眺めるくらいはしてしまうようになりました。手は何もせずにじっとしたまま、静謐とさえいえるような気配を漂わせていました。そのうちに、私は、その何かを待ち受けているような掌の形が気になって、そばに落ちていた山茶花の花を載せてみたのです。ピンクの八重咲きの、肉厚の花弁がこぼれる様に開ききり、端の方はもう茶色くなってしまった一輪を。灰色がかった掌の上にそっと落すと、そこだけ明るくなったように見えました。手は少し震えたようでした。そして固唾をのんで見つめる私の前で、花を壊さないように、包み込むように握ると、そのまま垣根の向こうに引っ込んでいきました。
私の話はこれで終わりです。その後、あの垣根から手が出ているのを見たことはありません。でもその代わりというのか、他の色々なものを目にするようになりました。最初の体験がこれだったからなのか、私が見るものは、どうも植物絡みのことが多いようです。ということは、あなたの場合は動物絡み、いえ、鳥絡みなのかしら?
あなたは、見たもののことを、たぶん疲れが溜まっていたからだ、と打ち消したいようでしたが、率直に言わせていただけば、私はあなたも見えるようになったのだと思います。それにしても鳥居の上で一列になって花いちもんめをしている烏を想像して、思わず笑ってしまいました。相手方はどこにいたんでしょう、地面? それともあの細い柱の上で二組が押し合いへしあいしていたのかしら? さぞかし可愛い状況だったのでしょうね、なんていうと、あなたは気を悪くするかもしれませんが、私達はどうしても見えてしまうことからは逃れられないのです。あなたも、私も。確かに他の人とはどうしたって違うものを目に映すこととなってしまうのですが、別に見えたからといって得になることもない代わりに損もしません。あと、昔風の言い方で付け加えるとするなら、「見える」ものは悪さをしません。少なくとも故意には。あとは、どうやってそれと折り合いをつけていくかというだけです。そうすれば、毎日はつつがなく過ぎていきますし、見えてよかった、と思うことも偶にはあるのです。
これであなたの気が少しでも楽になるといいのですが。
烏さんたちによろしく。いずれまたお便りします。
かしこ
参考:『百物語』杉浦日向子