霜降:古家の住人Ⅲ
梢に数個残った熟れ柿が、油を塗ったようなてらりとした光を反射している。傾いた陽に照らされて、影になった柿の木は墨で描かれたように見えた。その下の茅葺きの一軒家も、また絵の中の景物のごとく在る。幾度の風雪を耐えどっしりと、まるで時間から忘れ去られたかのように静かに佇んでいる。
その縁側で縫い物をしていた老婆は、ふと顔を上げると、冴えて乾いた空気を嗅いだ。微かに枯れた匂いがする。頭上の空は吸い込まれるほど高く、視線を徐々に下ろしていくほどに淡から濃の紅に染まった雲が目に入る。清澄な風は肺の奥底をわずかに冷やした。
老眼のせいでなかなか針に糸を通せない。しばらくの試行錯誤の後、諦めた彼女は針仕事を膝に下ろすと、ぽんぽんと袂を上から叩くようにして煙草の箱を探し出した。一本咥えたはいいが、次に必要な物が見つからない。
はあ、と彼女は大袈裟な溜息をつくと、探す手を休めて独り言にしては大きな声で呟いた。
「嫌になってしまう、お前達のために縫ってやっているっていうのに」
横目でちらりと障子の辺りを窺うが返事はない。効果がないと見て取ると、さらに続けた。
「まったく古い家っていうのは手もかかるし、維持費も大変だ。年取った身に鞭打って、頭を悩ませてどうにかやりくりしているっていうのに、礼の一つもない。おまけに仕事の後の一服もできないっていうんじゃあ、もうどうしたらいいか。話し相手がないのもやっぱり寂しいから、引っ越そうか。いっそ一思いに燃やしてしまおうか」
息継ぎの暇も惜しんで、一気にまくしたてる。すると、演じられる愚痴をさえぎるように、百円ライターが部屋の奥から投げつけられた。
「やっぱり隠してたね。ものを投げるんじゃないって言うのに」
文句をつけながらも、彼女はいそいそと煙草に火を点けて旨そうに吸い込んだ。一拍おいて吐き出された煙の先、夕暮れの空を烏が鳴き交わしながら帰っていく。
ぎし、と角の床板が軋んで、彼女はそちらに顔を向けた。
「おや、ひさしぶり」
「……お前か」
足を踏み出したままの姿勢で、老婆を呆然と見ていた青年は徐々に何とも表現しがたい表情を浮かべた。
「今回は、えらい年寄りになったな」
「私はもっと年寄りのお前に会ったことがあるよ」
「そうなのか」
憶えにないが、いや憶えていなくて当然なのか。と、彼は口の中で呟きながら、首をひねった。
「難しく考えないで、まあ座ればどうだね」
彼女の言葉をきっかけに、青年は近付いてきて隣に腰を下ろした。
彼女と比べれば確かに若いが、それでも子供というほどではない。もう二十代の終わりに差し掛かっているだろう。多分朝に剃った髭がもう伸びて、顎をうっすらと覆っていた。着ている開襟シャツは大分くたびれている。観察されていることに気がついて、彼は居心地悪そうにもぞもぞと身体を動かした。
「お年寄りには敬語で礼儀正しく接さなければいけないという気分になる」
「でもお前がそんな神妙なのは却って変だよ。いつもの通りでいいんじゃないか」
「じゃあ、そうしようか。しかしいつになっても不思議だ」
彼は無理やり吹っ切ったような声で言うと、興味深げに辺りを見回した。彼女は手に持ったままだった煙草を傍らの灰皿に載せた。
「近頃は何をしてるんだね」
「暇を持て余して本ばかり読んでいる」
「贅沢だね」
まったくだ、と青年は笑った。相手の心も明るくするような笑顔だった。和らいだ顔の輪郭は幼い頃から変わらない。
「山のように積んだ本の中に『何を見ても何かを思い出す』というものがあるんだ」
「そうなのか」
「うん、確か短編集だ。実際読んではいないんだが」
彼は靴脱ぎの石の上に投げ出した爪先を反らしたり縮めたりしながら、それが自分の身体の一部でないもののように眺めた。
「題名を見たとき、非常に感銘を受けてね。それからずっと読めずにいる」
「なんだそれは」
言ってはみたものの、彼女にはそれがどんなことか分かった気がした。先走った期待が大きくなりすぎて、それが裏切られた時の落胆を想像すると手が出せないのだろう。美しく包まれたものを開いて中身を暴くことを躊躇する心情に通じるものもあるかもしれない。
「それで、生きていくということは記憶していくことである。確かに忘却からは逃れられないが、忘れたくてもそう出来ない事柄も沢山ある。その逆にどうしても憶えていたいことも多いだろう。そうして記憶を反芻するうちに年をとれば、まさに何を見ても何かを思い出すようになる。それは呪詛でもあり、また恩寵であろうか、と考えたりしている」
「題名だけで?」
「題名だけで」
「暇なんだね」
「そう、暇なんだ」
相槌に遠慮はないが悪意もない。年の離れた二人は頓着せずに笑った。笑いが久しぶりに出会った戸惑いを拭い去ると、彼は枝先の柿をつと指差した。
「あの柿を取ったときのことを憶えてるか?」
「うん。あの時は同い年くらいだったか」
「僕は引っ越してきたばかりだったから十二の頃か。お前がやかましく旨そうだ食べたいというから、必死にあの脆い木に登ったのに」
「ははは」
「骨折り損のくたびれ儲けとは正にあのことだ」
「いやはや、まったく、顔が曲がるかと思うほど渋かった」
口に入れたときの衝撃を思い出すと、二人の間にまた笑いがこみ上げた。
「いまだに柿を食べる時に一瞬身構えてしまうのはお前のせいだ」
「なんだ、柿を見ると私を思い出すという話なのか? もうちょっとましなもので思い出してくれてもよかろうに」
「他のものでも思い出すぞ」
指折って彼は数え始めた。縁起が悪いのにお前が好きだという彼岸花とか、腕一杯の紅葉をお前が二階から降らせたこともあったし。
「あとは煙草の匂いとか。先程、縁側を歩きながら、誰もいないはずなのに煙草の匂いがする、と思って角を曲がったら、お前がいたんだ」
「考えてみれば秋に会うことが多いね。一番好きな季節だけど」
「確かに秋は好きだが、関係あるのか? 夕方に遭遇することが多い、というのは……あれか、誰そ彼時というのも伊達ではないということか」
ううん、と青年は腕を組んでうなった。彼女は彼が言葉を発するたびに覗く八重歯を視線で追っていた。彼は次の質問を続ける前に、少なからず迷った目で彼女を見た。
「なあ、お前は死んでいるのか」
「どうだろう」
彼女はちんまりと座ったまま、微笑んで答えた。
「……それとも僕が死んでいるのだろうか」
「どうだろう」
とらえどころのない返事に、青年は眉根を寄せた。
「お前の家はここだろう?」
「そうだよ」
「僕の家もここだ」
「そうかい」
「偶に、変な拍子にお前に会うだろう。気がつくと、つまり、お前がいなくなって現実に立ち返ると、いつもそんなに時間は経っていない」
「そうかい」
「……答える気がないのか、知らないのか、どっちだい」
「今日は私の方がお前が知っているよりは知っているよ。この前は逆だった。年寄りのお前にほとほと困らされてね。依怙地で、頑固で、話を聞きだすまでの苦労と言ったら」
「それはきっと今のお前ののらくらした返事への復讐だよ」
「意地の悪い男だね」
「どっちの台詞だ」
彼はぼやいた。くくっと押し殺した彼女の笑い声は思いがけないほど若々しく響いた。
「……お前とか、他の奴とかに、こんな風に不自然に遭遇すると、自分が幽霊なのではないかと思うんだ。この家が気に入るあまり、死んだ後も気付かずに取り憑いているのではないか、と」
「それはないよ」
彼女はきっぱりと否定した。
「やっぱり意地悪をするのは私の性に合わないから教えてあげようか。でも私がきっとそうだろう、と見当をつけただけのことだから本当ではないかも知れないし、肩透かしかもしれない。それでもいいんだね?」
青年は黙ってこっくりと頷いた。顔中の皺を寄せるようにして彼女は目を細める。
「お前も私もそれぞれちゃんと生きているよ。ただその時間がずれているんだ。あのね、この家に入った途端、空気が外に比べてゆったりと重い時があるだろう」
「……あるな、確かに」
「こんな家の中ではね、時間の進み方がいつも同じ速さというわけではないんだよ。おまけに、ちょっと折れ曲がったりもする」
数度瞬きして、彼は彼女の言葉の意味を考えているようだった。
秋の日は釣瓶落とし、と俗に言う。急速に沈んでいく色彩の中、草むらでは気の早い虫が鳴きはじめている。
「幽霊こそいないけれど、ここがお化け屋敷だというのは当たりだ。人間以外のものにも居心地がいいらしい。色々と住み着いているからね」
「色々というと……、たとえば、走っていく子供の足音が聞こえることがあるんだが、あれはもしかして、座敷童か?」
「そうだよ。今、綿入を縫ってやっているところだよ」
「時々、地震でもないのに戸やなんかが揺れるのは」
「家鳴だね」
いやに詳しいなあ、と彼は感心した。ずっと住んでるといやでもそうなるよ、と彼女はあっさり答えた後、付け加えた。
「あれらには、あれらなりの論理があるが、お互いに邪魔をしないかぎりは悪くない奴らだよ」
彼はしばらく黙ってから、そうか、と一言だけ言った。
「ところで、煙草は身体に良くない、と僕が説教したのはおぼえてるか?」
「それは憶えてないな」
「都合のいいことは忘れるんだな? 腹の中だけじゃなく肺まで真っ黒にする気か」
「失敬な。真っ当に生きてきた女を捕まえて何を言う。だいたいこんな年寄り相手に健康を説いても、今更だろうに」
「だからずぅっと前に注意しただろう。若い頃から吸っていた癖に。知ってるぞ」
「それならお前にどうこう言われても止めなかったということが分かったろう。おまけに長生きもしている」
それよりも、と彼女は膝を乗り出した。
「他の奴にも会った、ってさっき言ったけど、どんなのに会ったんだい?」
「ああ言えばこう言う口は健在か。……この前会ったのは子供だったよ。いが栗頭の小さな坊主。出会い頭にぶつかって転ばせてしまってね、泣き止ませるのに苦労した」
どうにか宥めすかして飴をやって、と続けた彼の声はそこらじゅうで湧き起こる虫の声が邪魔になって聞こえない。しまいには、彼がただぱくぱくと口を開閉しているとしか見えなくなった。
「もっと大きな声で、」
言いかけて、彼女は辺りが再び明るくなっていることに気がついた。
ちょうど毛一筋ほど残っていた太陽が沈むところだった。最後の光をまともに投げつけられた向かいの山では紅葉が一面燃え立つようだ。
視線を隣に戻すと、青年の姿は消え失せている。座布団でも勧めればよかったか、と今更ながらに彼女は思った。あと、庭の渋柿も干せば食べられると教えてやればよかった。
しかし、それはまた次の機会に。その時の話の種にすればいいことだ。
「煙草を吸うなと言われたことを憶えてない、というのは本当だけど。……この家は憶えているようだよ」
彼女は青年には届かないことを承知の上で言った。
誰かのお節介焼きのせいで私に禁煙させようと必死だよ、とそれから心の中で付け加えたが、彼女が実際に口にしたのは違う事で、別の相手に向けてのものだった。
「そうだろう? お前達はあれのことが好きだったんだね。いや、違うか、好きになるんだね、本当に。だから忘れないんだね。」
家が隅々から幽かにざわめいた。
磨かれた床板、毛羽立った畳。縁の下に放り込まれたがらくた。柱に残る背比べの刻み。家具が畳に残したへこみ。壁に滲みついた煙草の匂い。いたるところに過去の住人の痕跡がある。そしてそれを家は抱え込んでいる。
なにも、憶えているのは人間だけではないということだ。
それがいかに些少なきっかけでも、大切な記憶を甦らせ、体内で再生するとき、過ぎ去った時間は意味を失くす。思い出が鮮やかであればあるほど、距離は縮まり、時代は隣接する。顔を見合わせ、言葉を交わせるほどに。手を伸ばせば触れるほどに。
きっとそういうことなのだろうと、この家で長い歳月を過ごした彼女は思う。
「それで、あれが礼のつもりかい?」
彼女は思い直したように問いかけて、置きっぱなしだった煙草に手を伸ばした。指が触れるか触れないかのところで、それは灰皿の上でさらりと崩れる。
一炊の夢というよりは一吸いの夢というべきか。とにかくにも短い間の邂逅ではあった。
フィルターぎりぎりのところまで燃えているそれを諦めて、彼女は縫いかけの綿入を取り上げた。差しておいた針を摘まむと、つん、と引っぱられる感覚があって、手元に目を凝らす。
先刻の悪戦苦闘が嘘のように、針に糸が通っていた。
「まあ今日はこれで及第としようか。でも今日はもう縫い物はしないからね」
ふん、と鼻息と共に発された言葉の内容よりは余程嬉しげな表情で、彼女はてきぱきと裁縫箱を片付けた。しまい終えたところで、袂から半分潰れた箱を出すと新たな煙草に火を点ける。煙を一吐きしたところで、急に気を変えた。
「……次の家主に免じて、今日はさっきので仕舞いにしておこうか」
呟くと障子の影で幼い子供が笑いさざめく気配がして、間隔の短い足音が部屋の中をぐるぐると駆ける。
「なんだい、私のこともちゃんと好きだっていいたいのかい。そんなことは前から知ってるよ」
お化けに綿入を作ってやるようなお節介は他にいないだろうからね。
言いながら、彼女は灰皿にまだ長い煙草を押し付ける。立ち上がり腰を伸ばすと、裁縫箱を抱えて、子供の足音を追うように暗がりになった家の奥に入っていった。
縁側に残されたままの吸殻からは、細い煙がしばらく立ち昇っていたが、そのうちそれもふいと消えた。