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立春:狐と絵本

 まだ名ばかりではあっても、暦の上では春と呼ぶことができる一日に、庭先に狐さんが立っているのを見つけました。まるくふくらんだ猫柳の芽、それが連なった梢になかば身を隠すようにして佇んでいるのを。

 狐さんといっても、かわいらしい女の子。ただ、頭の上の耳としっぽが傍らの木の芽のように柔らかな毛並みの狐のものです。

 声をかけると、一瞬びくりとして、その耳としっぽがぴんと立ったのが見えました。そのまま逃げてしまうかと思ったのだけれど、そのままそろそろと近寄ってくると、縁側から一、二歩のところで立ち止まりました。

「いつも息子がお世話になっています。あの子は今日は出かけてるのよ」

「……うん」と、言った拍子に狐さんの耳としっぽはわずかに下がりました。あらなんてわかりやすいのかしら。私はおもわず浮かべそうになった微笑を押し込めるのに少しばかり苦労しました。といっても、狐さんが悄然とした様子をみせたのはほんの束の間、すぐに姿勢を正すと、あらたまって私に会釈をしました。

「こちらこそいつもおせわになっている。今日はそもそもおじゃまをするつもりはなかったのだ。さいきんべんがくにいそがしいときいているから。ただちょっととおりすがりにどうしているかなとおもっただけなのだ」

 最近、息子は前よりずっとしっかりしてきたと思います。母親としてはできるかぎりきちんと育ててきたつもりなのだけれど、なにかと目の届かないところがあったのではないかと、秘かに心配していました。ひとりっ子だから、甘やかしすぎたり、わがままを許しすぎたりはしていなかったかしら。ちゃんと他のひとを慮れるようになってくれたかしら。

 でも、ご縁で狐さんの世話係となってからというもの、それが杞憂と思えるようになって私はうれしい。まるで兄妹みたいと言ったらふたりとも嫌がりそうだし、まるっきりそうだともいえない関係なのだけれど、はっきりしているのは、息子が文句ばかりいいながらも結構面倒見はいいこと。

 でもそれも相手がこの狐さんなら、当然のことなのかもしれません。

「寄ってくださってありがとう。なにかこれからご予定はおありなの?」

「? いや、とくに、ないが……?」

「あのね、今マドレーヌを焼いているのよ。お茶をご一緒にいかがかしら?」

 私の提案に、狐さんはぱちりと睫毛をしばたたかせました。次に、顔を上向かせると、鼻ですんと息を吸い込みます。卵とバターと砂糖の混ざった、あまいあまい匂いが、開いた戸の隙間から冷たい外の空気に流れ出しています。

 そのままの姿勢でちょっと固まってから、狐さんは目をきらきらさせて、私を見上げました。ぜひ、と言うその声が上ずっているのは気のせいではないはず。だって黒髪の間で三角形の耳もぴんと立っているし。

 私は、今度こそ微笑んで、狐さんを招き入れました。



 生憎とマドレーヌが焼きあがるまでにはまだ時間があったので、それまでのおもてなしに、と私は絵本を引っ張りだしてきました。こんなものでいいかしら、とホットカーペットの上に並べると、狐さんは興味深げに一冊取り上げてぱらぱらとめくりました。

「これがいいな」

 字が読めない狐さんが選んだ威風堂々としたトラ猫の絵本を広げると、ちょこんと座った狐さんが横から覗きこみました。こんなこともひさしぶり。私はむかし繰り返し読んだ話を、なつかしい気持ちで読みました。猫が百万回生きて、それから最後に息をひきとるまでを。おしまい、と表紙を閉じると、狐さんは心底不思議そうな顔をしました。

「ねこは、どうしてしんでしまったのだ?」

「どうしてかしら」

 その小さな手を伸ばすのに絵本を渡すと、狐さんは確かめるようにはじめからおわりまでページを繰りました。

「だって、このねこは、たぶん、しねないのだ……とおもったのだ」

 年齢も職業も違う飼い主たちの変遷をみじかい指がたどります。すぐにいきかえるというのは、けっきょくはしんでいないということだ。零された呟きは幼いこどもの見かけにそぐわぬ響きを持って、私の息をひそめさせました。

「だからだれもすきではないのだと。じぶんいがいはだれも」

 だってみんないなくなってしまう、と俯いた狐さんが手を止めたのは、トラ猫が将来伴侶となる白猫に問いかける場面でした。

「……もうしぬとしっていたのかな、だから、よかったのかな」

 こんなにかわいらしくても、狐さんはやっぱりそれだけの存在ではないのだわ。私は気づいて、隣の華奢なうなじを見下ろしました。うまくは言えないけれど、力をそのちいさな身体に、永い年月をその透徹したひとみに、保ちつづけることがさだめられているのでしょう。たとえまだそれが始まったばかりだとしても、狐さんはちゃんとそれを知っていて。……面倒を見ているつもりで、本当に面倒を見られているのは、どちらなのかしら。

「違うんじゃないかしら」

 私はそう言って、手触りのいい黒髪を撫でました。狐さんはぴくりとしたものの、じっとして、私が触れるのをゆるしてくれたようでした。

「逆に考えてみたら、猫はずっと探していたのかもしれないわ。自分でも知らないままに」

 傍にいてもいいか、と乞える相手を。

「だからずっと生き返ってしまったのかも」

 埋められない心のすきまのために、無意識で次こそは、と繰り返していたのかも。愛することをおそれる者はそれを手に入れることはできない。訳したらきっとそんな異国の言葉を、誰かがどこかで甘い声で歌っていたのを思い出します。

「そうなのかな」

 狐さんは首を傾げました。さらりと髪が流れて、しばらくしてから狐さんはほうと息を吐くと笑いました。

「じゃあ、ねこはまんぞくしたのか」

「きっと、そうでしょう」

「ばかだな、きづくまで、ずいぶんとじかんをかけて」

 でも、といとおしげに絵本の中の猫を撫でて、狐さんは私を夜色のまなざしで見上げました。

「でも、それなら、よかった」

 よかった、と狐さんは繰り返しました。ええ、と私も頷いて、ちょうど焼きあがったマドレーヌを取り出すために立ち上がりました。うながす手を差し出すと、狐さんはおどろいた顔で、まじまじとそれを眺めました。これからお茶にしましょう。そのうちにあの子も帰ってくるでしょう。疲れたときには甘いもの。どんなに忙しくても、ほんの少し、お茶の一杯くらいは付き合う時間もあるでしょう。

 むかし、おなじように物語を読み聞かせたあとで、よかった、と猫について呟いてから、でも、と付け足した息子は、もう私の背丈を抜いてしまいそうだけれど。かいぬしはかわいそうだ、と続けられたちいさな声の持ち主のてのひらと、今おずおずと触れるてのひらの温度がおなじことにこっそりと笑んで、私は心地よい熱をそっと握りなおしました。



引用:『100万回生きたねこ』佐野 洋子

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