第4話「凍土の胎動と付きまとう黒い影」
冷たい北風が屋敷の石壁にぶつかり、低い悲鳴のような音を立てて中庭を吹き抜けていく。
灰色の雲が分厚く空を覆い、太陽の光を完全に遮断した辺境の朝は、肌を刺すような痛みを伴う寒さに包まれていた。
ルイスは厚手で装飾の少ない作業着の袖を肘までまくり上げ、両手に握ったクワの柄に強く指を食い込ませる。
乾燥しきった木製の柄は氷のように冷たく、掌の熱を容赦なく奪い去っていく。
黒ずんだ土の表面は分厚い霜に覆われ、まるで鉄板のように固く冷え切っていた。
つま先から這い上がってくる冷気にわずかに肩を震わせながらも、ルイスは深く息を吸い込んで意識を丹田へと集中させる。
胸の奥底で静かに眠る魔力の源流を探り当て、そこから温かい光の奔流を引き上げて肩から腕へと巡らせていった。
血液の代わりに純度の高い熱が血管を駆け巡るような感覚が全身を包み込み、かじかんだ指先に確かな感覚が戻ってくる。
柄を伝って流し込まれた黄金色の魔力が、刃先からあふれ出して冷たい空気を微かに揺らした。
ルイスが両腕の筋肉を引き絞り、クワを大きく振りかぶって黒ずんだ大地へと打ち込む。
固く凍りついていたはずの土が、魔力と接触した瞬間に抵抗なく崩れ落ち、刃先が深く沈み込んだ。
土の奥深くに潜んでいた腐敗臭を伴う瘴気が空気に触れて霧散し、代わりに水分をたっぷりと含んだ豊かな土の匂いが立ち上る。
打ち込むたびに黄金色の光の粒子が雪のように舞い散り、周囲の土壌に波紋を描くように浸透していく。
足元の黒い土が本来の赤茶色を取り戻し、かすかな熱を帯びて朝の冷気の中に白い湯気を立たせた。
ルイスは額ににじみ出た汗を手の甲で拭い、腰を伸ばして小さく息をつく。
吐き出す息は白く濁り、冷たい空気に溶けてすぐに消えていった。
浄化された畑の面積は中庭の裏手を大きく越え、領民たちが生活する居住区の境界線にまで迫っていた。
作業を始めた当初は遠巻きに様子をうかがっていた農民たちも、今ではルイスの背中を食い入るように見つめている。
『ここまでくれば、春の種まきには十分に間に合うはずだ』
肺を満たす冷たい空気が、心地よい疲労感とともに体を駆け巡る。
前世の記憶の中にある自分は、実家の意向に従ってただ屋敷の奥でふさぎ込み、夫の影に怯えるだけの日々を送っていた。
自らの手で土に触れ、誰かのために自分の能力を注ぎ込むことなど一度もなかったのだ。
今世では確実に、自分の足で新しい運命を切り開いているという静かな熱が胸の奥に灯っている。
「ルイス様、あの、これを」
背後からかけられた遠慮がちな声に振り返ると、粗末な麻の服を着た若い農民がひざまずいていた。
彼の手には、使い込まれた木製の椀が両手で大事そうに握られている。
「妻が、少しでもお体が温まるようにと、香草を煮出しました。どうか、お召し上がりください」
差し出された椀からは、土の匂いとは違う、香ばしくてわずかに甘い湯気が立ち上っている。
ルイスは目を丸くし、慌ててクワを地面に置いて衣服の裾で両手を拭った。
没落寸前とはいえ貴族の端くれである自分に、領民が直接物を差し出すなど本来ならあり得ないことである。
「私にですか。ありがとうございます。とても良い香りですね」
ルイスが歩み寄って微笑みながら椀を受け取ると、農民は頬を赤く染めてさらに深く頭を下げた。
木椀の表面から伝わる温もりが、かじかんだ指先を優しくほぐしていく。
一口含むと、香草の独特な苦味と微かな甘みが舌の上に広がり、冷え切っていた胃の腑からじんわりと熱が放射された。
実家では決して向けられることのなかった、純粋な好意と感謝のまなざしである。
胸の奥が温かなもので満たされそうになったその時、背後の空気が大きく波打った。
重い軍靴の足音が、凍った土を踏み砕きながらこちらへ近づいてくる。
振り向かなくても、背中にのしかかる濃密な威圧感と空気の重さで誰が来たのかは明らかだった。
農民の顔が一瞬にして青ざめ、弾かれたように後ずさりをして地面に額をこすりつける。
「ガレッド様、なぜここに。本日は執務室で北方警備の書類確認があったはずでは」
ルイスが振り返ると、黒い毛皮の分厚い外套を羽織ったガレッドが立っていた。
彼は地面にひざまずく農民には目もくれず、ルイスの両手にある木椀を鋭い眼光でじっと見つめている。
その黒い瞳の奥で、静かな不満の色が渦を巻いているのがはっきりと読み取れた。
「書類の確認は終わった。お前こそ、冷え込む外でいつまで土いじりをしているつもりだ」
低く響く声とともに、ガレッドが大きな歩幅で距離を詰めてくる。
彼はルイスの手から木椀を半ば強引に取り上げると、近くにあった空の木箱の上に置いた。
そして、自分の肩に掛かっていた分厚い毛皮の外套を脱ぎ、ルイスの頭からすっぽりと被せる。
重みのある外套にはガレッドの高い体温と、あの熟れた果実を煮詰めたような甘い匂いが色濃く染み付いていた。
冷気にさらされていたルイスの体が、瞬時にその熱と香りに包み込まれる。
「風邪を引かれては困る。もう十分だろう、屋敷に戻るぞ」
有無を言わせぬ強引な手つきで、ルイスの背中に大きな手が回される。
厚手の衣服の上からでも、彼の掌の熱が火傷しそうなほど鮮明に伝わってきた。
周囲で見守っていた領民たちは、恐ろしい辺境伯の予想外の過保護ぶりに目を見開き、息を潜めて固まっている。
ルイスは重い外套の中で身をよじり、彼から少しでも距離を取ろうと肩をすくめた。
「お待ちください。まだこの区画の浄化が完全に終わっていません。契約の義務を果たすためには、もう少し時間を……」
抗議の言葉は、頭上から降ってきた深いため息によってあっさりと遮られた。
「契約などどうでもいい。お前の手が、氷のように冷たくなっていることのほうが問題だ」
ガレッドの言葉に、ルイスは呼吸を忘れて彼を見上げる。
前世では領地の利益と防衛を何よりも優先していたはずの彼が、今世ではまるで別人のようなことを言う。
甘い匂いがさらに濃度を増し、ルイスの思考を白く塗りつぶそうとしていた。
差し出された外套のぬくもりと、逃げ道を塞ぐように回された腕の力強さに、ルイスはただ彼に寄り添いながら屋敷へと戻るしかなかった。




