第2話「甘い匂いと予想外のぬくもり」
重苦しい沈黙が、ろうそくの炎とともに揺れていた。
ガレッドは差し出された誓約書を受け取ろうともせず、ただじっとルイスを見つめている。
鋭い眼光の奥にある感情は読み取れず、底なしの暗闇のようだった。
ルイスはかじかんだ指先に力を込め、紙を持つ手が震えないように必死に耐える。
前世の記憶が正しければ、彼はこの申し出を冷たくあしらうか、あるいは不快感を示すはずだった。
しかし、予想に反して室内の空気が少しずつ変化していく。
肌を刺すようなαの威圧感が、春の雪解けのようにふっと和らいだ。
代わりに、熟れた果実を煮詰めたような甘い匂いが、ゆっくりと部屋の隅々にまで満ち始めた。
それは、αが特定の相手に対して強い庇護欲や親愛を示すときに放つ特有の香りである。
『どういうことだ』
ルイスは胸の奥が熱くなるのを覚え、呼吸の乱れを隠すように小さく息を呑む。
前世では、こんなに甘く濃密な匂いを向けられたことなど一度もなかった。
ガレッドが静かな足取りで、ルイスとの距離を詰めてくる。
軍靴が床を叩く音が止み、大きな影がルイスの全身をすっぽりと覆い隠した。
見上げるような至近距離に、彼の整った顔がある。
「本当に、これでいいのか」
低く響く声は、ルイスの足元を震わせるほどの重みと、不思議なほどの熱を帯びていた。
ルイスは後ずさりしたい衝動をこらえ、真っ直ぐに見つめ返した。
「はい。これが私たちの歩むべき道です」
ガレッドは深く息を吐き出し、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
その大きな手が向かったのは、誓約書ではなくルイスの冷え切った両手だった。
剣だこが刻まれた無骨な指が、ルイスのかじかんだ手をそっと包み込む。
直接触れた肌から、火傷しそうなほどの高い体温が流れ込んできた。
ルイスは驚きで目を丸くし、思わず肩をビクリと跳ねさせる。
「契約書は預かろう。だが、俺からも一つ条件がある。お前は少し、体が冷たすぎる」
ガレッドはルイスの手から羊皮紙を抜き取ると、そのまま寝台の端へとルイスを誘導した。
抗う隙も与えられず、ルイスは柔らかいマットレスの上に腰を下ろすことになった。
ガレッドもまた、すぐ隣に腰を下ろす。
重い体格のせいで寝台がわずかにきしみ、ルイスの体が自然と彼の方へ傾いてしまう。
近すぎる距離から、先ほどの甘い匂いがさらに強く鼻腔をくすぐった。
心臓が肋骨を激しく叩き始め、耳の奥で自身の血流の音がうるさく鳴り響く。
「あの、ガレッド様……近すぎます」
かすれた声で抗議するが、ガレッドは気にする素振りも見せない。
彼は傍らにあった分厚い毛布を引き寄せると、ルイスの肩からすっぽりと包み込んだ。
毛布の上から背中に添えられた手のひらが、衣服越しでもわかるほどの熱を放っている。
「辺境の夜は冷える。風邪を引かれては、契約とやらにも支障が出るだろう」
淡々とした口調とは裏腹に、その動作は壊れ物を扱うようにひどく丁寧だった。
ルイスは毛布の中で身を縮めながら、隣に座る大きな男の横顔を盗み見る。
前世で見た血の涙を流す顔と、今の穏やかな顔が、脳内で何度も重なり合った。
冷徹な顔の裏側に、こんなにも過保護で不器用な優しさが隠されていたのだろうか。
それとも、自分が前世で彼を拒絶し続けていたから、このぬくもりを知る機会がなかっただけなのか。
甘い匂いにほだされたΩの本能が、彼にすり寄りたいと訴えかけてくる。
ルイスは唇をきつく噛み締め、契約という冷たい盾の裏側で、波打つ感情を必死に押さえ込んだ。




