歴史人物の現代ライフ
宅ダンスレッスンは、結局3分で頓挫した。
曹操が「此れは兵士の練兵にすらならぬ」と断じ、信長が「動きに斬り合いへの応用が利かぬ」と同意したためだ。システムは「文化交流失敗!」と悲しげな通知を出したが、幸い『極楽浄土』の強制再生は、二人が「戦術的価値なし」と判断したことで回避された。
羅夢は心底ほっとした。曹操にハートの形を作らせようとした瞬間、あの氷のような視線を浴びた時の恐怖は、もう二度と味わいたくない。
代わりに、システムは別の提案をしてきた。
【宅ダンスミッションは失敗しましたが、文化交流の精神は評価します!】
【代替報酬として、バッテリー節約モードを一時解除し、『電卓』『コンパス』などの基本アプリを利用可能にします!】
【ただし、バッテリー消費は加速します!現在残量71%!】
「電卓とコンパス……」羅夢は唸った。確かに、地図として使えるアプリはまだオフラインだが、基本機能なら役立つかもしれない。
彼女は携帯の画面をスワイプし、アプリ一覧を開いた。
曹操の目が、その動きに釘付けになった。「……其の動きは?画面を撫でるように……」
「スワイプです」羅夢は説明した。「次の画面に移る時に……」
「ふむ」曹操は真剣な顔で頷いた。「即ち、巻物を開くようなものか」
「まあ……そんな感じです」
羅夢が電卓アプリをタップした。シンプルな計算機の画面が現れる。
「此れは『電卓』です。数字を計算する道具で……」
彼女の説明が終わらないうちに、曹操が手を差し伸べ、携帯を取った。
「……数字を計算する」
彼は画面を凝視し、指で「1」「0」「0」「0」とタップした。画面に「1000」と表示される。
「千」曹操は呟いた。「それに……五割増しは」
彼は「×」「1」「.」「5」「=」とタップした。
「千五百」
彼の目が、微かに光った。
「速い」
「ええ、速いですよね」羅夢は頷いた。「掛け算も割り算も、複雑な計算も……」
曹操はもう聞いていなかった。彼は夢中で数字を入力し始めた。
「仮に、兵士一万に、日々糧秣三升ずつ与えるとせよ」彼は独り言のように呟きながら入力する。「三十日では……九千石」
「さらに、馬三千頭に、飼料五升ずつ……三十日では……四千五百石」
「合わせて、一万三千五百石」
信長が興味深そうに覗き込んだ。「おお、即座に計算できるのか」
「然り」曹操は目を離さずに答えた。「しかも、間違えぬ」
彼はさらに計算を続けた。
「一日の行軍速度を……五パーセント向上させるとせよ」
「×」「1」「.」「0」「5」「=」
「遼東平定まで、あと千里。通常の速度では二十日……」
彼は計算を続けた。目は画面に釘付けで、指の動きは次第に速くなっていく。
信長はあっけにとられてそれを見ていたが、すぐに自分の興味を向けるものを見つけた。羅夢が次に開いたアプリ——コンパスだ。
「此れは?」信長が指さした。
「コンパスです。常に北を指します」
「北を……」信長の目が見開かれた。「常に?」
「はい。磁力を利用して……」
説明する間もなく、信長は携帯を取り上げた。コンパスの針が、揺れながらも確かに北を指している。
彼は体の向きを変えてみた。針はそれに合わせて動き、常に北を指し示す。
「……凄い」信長の声には、驚き以上に熱がこもっていた。「此れほど正確に、常に北を指す道具が……」
彼は顔を上げ、遠くの山並みを見た。
「水軍に此れがあれば……霧の日でも、夜でも、方向を見失わぬ」
「海を渡るにも……陸を進むにも……」
彼の目が輝いた。「天下布武……此れがあれば、さらに速く、さらに確実に……」
羅夢は二人の反応を見て、少し驚いた。電卓とコンパス——現代人にとっては当たり前の機能が、彼らにはこれほどの衝撃を与えるのか。
曹操はまだ計算に夢中だった。
「……もし、兵站の効率を十パーセント向上させれば、必要な糧秣は……一万二千百五十石に減る」
「その分を、武器の調達に回せば……」
「戦力を、さらに三パーセント向上させられる……」
彼は完全に没頭していた。もはや羅夢や信長の存在さえ忘れているようだ。
【警告:バッテリー消費が加速しています!】
【電卓アプリ使用中:現在残量70%】
【コンパスアプリ使用中:現在残量69%】
「あ、ちょっと!二人とも!バッテリーが減ってます!」羅夢は慌てて声を上げた。
曹操はやっと顔を上げた。目には、何か閃いたような光が宿っていた。
「此の『電卓』……常に持ち歩けるのか」
「はい、ですが……」
「ならば」曹操は携帯をしっかりと握りしめた。「此れは、我が軍に必須の道具だ」
「待って!それは私の……」
信長もコンパスを離さない。「此の『コンパス』も、わしが預かる。水軍の訓練に必須だ」
「ダメです!二人とも!それは私の携帯です!」
羅夢は必死に手を伸ばしたが、曹操は巧みにかわし、信長は背を向けた。
「我々が此の異世界を生き延びるためには、優れた道具が必要だ」曹操は冷静に言った。「此れは、戦略的必要である」
「同意だ!」信長は笑った。「娘よ、此れらは一時的に我々が預かる。その代わり、わしらが汝を護ってやろう」
「護ってくれるのはありがたいですが、それは別問題で……」
その時、突然——
道端の茂みから、何かが飛び出してきた。
いや、正確には——転がり出てきた。
銀色の鎧に身を包んだ若き武将が、地面を一度転がり、すぐに飛び起き上がった。その手には、長い槍が握られている。
「趙雲、ここにあり!」
彼は叫びながら、周囲を見回した。そして、曹操と信長、羅夢の三人を見て、一瞬、目を見開いた。
「……曹公?」趙雲の声には驚きが滲んでいた。「何故ここに……そして、此の方は?」
彼の視線は信長に向けられた。信長の南蛮胴具足と陣羽織は、明らかに趙雲の知るいかなる服装とも異なる。
曹操は冷静に趙雲を見た。「趙雲か。何故ここに?」
「雲は……」趙雲は混乱したように首を振った。「長坂坂にて、幼主を護りつつ戦っていた。然るに、突然、周囲の光景が変わり……気が付けば、此の地に」
「長坂坂?」羅夢の声が思わず出た。
それは——まさに、彼女が携帯に保存している『三国志演義』の中で、趙雲が最も有名な活躍をした場面ではないか。
信長が興味深そうに趙雲を観察した。「槍の遣い手か。なかなかの風貌だ」
趙雲は警戒して槍を構え直した。「此の方々は?」
「共に此の異世界に迷いし者だ」曹操は簡潔に説明した。「今は、協力して生き延びる道を探している」
趙雲は少し戸惑いながらも、槍を下ろした。「……そうであらんか」
そして彼の目が、曹操の手に握られている携帯に留まった。
「曹公、其の……光る板は?」
曹操はちらりと携帯を見て、そして羅夢を見た。「此の娘の所有物だ。『天機匣』と称する」
「天機……匣?」趙雲はますます困惑した。
羅夢は頭を抱えた。また説明するのか……
だが、システムが彼女を助けた。
【新たな歴史的人物を検知:趙雲(子龍)】
【状態:混乱、警戒、しかし敵意なし】
【提案:友好関係を構築しましょう!】
【方法:例えば、彼の有名な場面を見せてあげるのはいかがですか?】
【オススメ動画:『三国志演義』第30話『長坂坡の戦い』】
「ダメです!」羅夢は心の中で叫んだ。「バッテリーが!」
【バッテリー残量:68%】
【動画再生可能です!5分間の抜粋再生なら、消費は1%未満!】
【友好度アップのチャンスです!】
趙雲が近づいてきた。「其の『天機匣』……何か、雲に関係あるものか?」
彼の目は真っ直ぐで、疑念よりも好奇心に満ちていた。
羅夢はため息をついた。もう、どうにでもなれ。
「……ちょっとだけ、見せます」彼女は言った。「でも、5分だけですから」
曹操は眉をひそめた。「また、此れを使うのか。バッテリーが減ると言っていたではないか」
「1%だけです!それに……」羅夢は趙雲を見た。「彼が、自分がどんな風に描かれているか知る権利はあると思います」
信長が笑った。「ほう、わしの時と同じか!面白い!見せてやれ、娘よ!」
羅夢は携帯を取り戻し——曹操は少し渋ったが、結局手放した——『三国志演義』のファイルを開き、第30話を探した。
長坂坡の戦い。趙雲が劉禅を抱え、曹操軍の中を七進七出する——その伝説の場面だ。
「これです」彼女は動画を再生した。
趙雲は、真剣な表情で画面を見つめた。
最初は、役者が演じる自分自身の姿に、戸惑いを隠せなかった。
だが、戦いが始まり、彼が敵陣に単騎で突撃するシーンになると——彼の表情が変わった。
画面の中の趙雲が、敵兵を次々と倒し、劉禅を守りながら疾走する。
現実の趙雲は、一言も発さなかった。
ただ、じっと見つめていた。
動画は、趙雲が無事に劉備の下に戻り、劉禅を渡すシーンで終わった。
再生時間:4分37秒。
静寂が流れた。
趙雲は、まだ画面を見つめていた。動画は終わっているのに。
「……雲」彼は、ようやく口を開いた。「あの時……あのように、見えたのか」
その声には、驚きと、戸惑いと、そして何か——誇りのようなものが混ざっていた。
「槍の動きは……」彼は自分の手を見た。「あそこまで……華美ではなかったが」
「それは演出です」羅夢は急いで説明した。「実際の戦いとは、ちょっと違うかもしれません」
「演出……」趙雲はその言葉を繰り返した。「では、人々は……雲を、あのように記憶しているのか」
「記憶というより……」羅夢は言葉を選んだ。「物語として、楽しんでいるんです。あなたの勇敢さを、称えているんです」
趙雲は深く息を吸い込んだ。
そして、彼は曹操に向き直り、深く一礼した。
「曹公、あの時は、敵ながら、あえて深く追撃なさらず、雲を通してくださった。そのこと、今でも感謝しております」
曹操は微かに頷いた。「あれは……戦術的判断だ。深追いは無用だった」
だが、その目には、わずかながらの敬意が宿っていた。
信長が感心したようにうなずいた。「なるほど……此れが、後世に語り継がれる『英雄』というものか」
彼は趙雲を見た。「槍の遣い手よ、我が軍に加わらぬか?共に、此の異世界を切り拓こう」
趙雲は一瞬、目を見開いた。そして、ゆっくりと首を振った。
「雲は、劉備様に仕える身。たとえ此の異世界にいようと、その志は変わりません」
「ふむ」信長は残念そうだったが、笑みを浮かべた。「それも良かろう。忠義は、武士の基本だ」
【趙雲の友好度が大幅に上昇しました!】
【現在:中立 → 友好的】
【バッテリー消費:1% (67%に減少)】
【しかし、文化的交流の価値は計り知れません!】
羅夢はほっと胸を撫で下ろした。少なくとも、敵対されずに済んだ。
曹操が再び携帯を見た。「……では、計算を続けよう」
「待ってください!」羅夢は慌てて止めた。「バッテリーが67%です!もうすぐ危険水域です!」
「危険水域?」曹操は眉をひそめた。
「つまり、あと少しで動かなくなるんです!」羅夢は必死に説明した。「だから、もう使わないでください!雷雲まで行って充電するまで!」
信長も、ようやくコンパスを離した。「……仕方あるまい。ならば、早く此の『雷雲』に向かおう」
趙雲が首を傾げた。「雷雲……ですか?」
「ああ」羅夢は説明した。「此の携帯——『天機匣』を動かすための『エネルギー』を補充するために、雷が必要なんです」
趙雲は理解したように頷いた。「では、雲もお供しましょう。雷の地は、往々にして危険なものです」
「あ、ありがとうございます……」
羅夢は心の中で思った。趙雲が味方についてくれたのはありがたいが、その分、食料とか、宿泊とか、いろいろ問題が増えそうだ……
彼女が考えていると、システムの通知が再び表示された。
【緊急通知:現実世界から、新たな連絡が入りました!】
【送信者:VRテスト管理部門】
【件名:被験者#998(羅夢)の異常脳波に関する緊急協議のご連絡】
【内容:本日午後3時より、関係者による緊急協議が行われます。プロジェクトの継続可否について審議されます。】
【付記:被験者の安全を最優先に検討いたします。】
羅夢の顔色が青ざめた。
協議?
プロジェクトの継続可否?
「最優先に」という言葉が、逆に不気味に響いた。
【現在の現実世界時刻:午後2時47分】
【協議開始まで:あと13分】
【提案:現実世界の身体が安全を確保されるよう、祈りましょう!】
【あるいは、此方でできることをしましょう!例えば——雷雲まで急ぎましょう!】
「急ごう……」羅夢は呟いた。「急がなきゃ……」
曹操が彼女の様子を見て、鋭い目を細めた。「……何かあったのか」
「現実世界で……私の身体が、危ないかもしれません」羅夢は正直に言った。「もうすぐ、テストを中止するかどうか、話し合いが行われるそうです」
「中止?」信長が聞き返した。「つまり、汝は此処から消えるのか?」
「……多分、そうなります」
趙雲が真剣な表情で言った。「ならば、尚更急がねばなりませんな。此の『天機匣』を動かし続けるために」
四人は顔を見合わせた。
曹操は電卓アプリの画面を一度見つめ、そして顔を上げた。
「行くぞ」
その一言に、全員が頷いた。
北西の空には、雷雲がますます濃く立ち込めている。
道のりはまだ遠い。
バッテリーは67%。
現実世界での協議開始まで、あと13分。
羅夢は携帯をしっかりと握りしめ、一歩を踏み出した。
背後では、曹操がまだ小声で計算を続けていた。
「もし兵站の効率を十五パーセント向上させれば……」
信長はコンパスを手に、方角を確認していた。
「北へ……であれば、あの山の麓を回るのが近道か」
趙雲は槍を構え、周囲を警戒していた。
そして羅夢は、ただ一つ願った。
どうか、時間が足りますように。
どうか、雷で充電なんて無茶なことが、うまくいきますように。
どうか——
彼女の願いが終わらないうちに、またもシステムの通知が表示された。
【新規ミッションを検知!】
【ミッション名:『雷神への挑戦』】
【内容:雷雲の中心部まで到達し、自然放電を利用して充電を試みましょう!】
【成功報酬:バッテリー残量+30%!新機能『天気予報(限定的)』アンロック!】
【失敗ペナルティ:感電死(高確率)】
【補足:雷雨の中では、金属製の物を身に着けないようにしましょう!特に長い槍とか!】
【幸運を祈ります!(๑•̀ᄇ•́)و ✧】
羅夢は、趙雲が握る銀色の長槍を見た。
そして、自分が持つ金属の塊——iPhoneを見た。
「……金属、ダメなんですよね」彼女は虚ろな声で呟いた。
趙雲が首を傾げた。「何か問題が?」
「いえ……」羅夢は深く息を吸い込んだ。「ただ、これからやることが、どんどん無茶になってるって思っただけです」
信長が高らかに笑った。
「無茶こそ、人生の醍醐味だ!」
曹操は冷静に付け加えた。「しかし、無茶は計画性を持って行うべきだ。まずは、雷を如何にして安全に利用するか、考えねばならぬ」
彼は再び電卓アプリを開こうとしたが、羅夢に止められた。
「考えは良いですが、電卓はダメです!バッテリーが!」
曹操は少し不満そうな顔をしたが、仕方なく携帯を手放した。
四人は、雷雲に向かって歩き始めた。
頭の上では、雷光がちらつき始めていた。




