最終時刻
現実世界・聖恵医科大学付属病院 集中治療室
午後1時58分。
72時間の期限まで、あと2分。
部屋は静まり返っていた。機械の規則的な音だけが、不気味に響く。モニターには、依然として活発だが理解できない脳波パターンが刻まれている。
羅夢のベッドの傍らには、両親が立っていた。母親は娘の手を握りしめ、肩を震わせている。父親は顔を強張らせ、涙をこらえている。
堀内教授と森田医師が、ベッドの反対側に立つ。看護師たちが、静かに生命維持装置の周りに配置されている。
「……時間です」堀内教授の声は、低く重い。
森田医師は、最後にもう一度モニターを見た。脳波は、激しい、まるで何かと戦っているようなパターンを示している。
「教授、まだ脳は活動しています。もしかしたら——」
「我々は決断した」堀内教授は首を振った。「家族も同意している。無期限の延命は、誰のためにもならない」
彼は、人工呼吸器のチューブに手を伸ばした。
「装置を外します。その後は、自然経過を見守る」
母親の嗚咽が、静かな部屋に響く。
父親は、娘の額に手を当て、中国語で囁いた。
「夢夢……お父さんとお母さん、ずっとそばにいるから……」
森田医師は目を閉じ、深く息を吸った。
そして、堀内教授がチューブに触れたその瞬間——
モニターの脳波が、突然、最大振幅に達した。
異世界・時空の接合点
すべてのエネルギーが、一点に集められた。
曹操、信長、趙雲、諸葛亮、毛利——彼らのデータは、光の粒子となり、羅夢を取り囲む巨大な輪を形成している。その中心に、羅夢が立つ。彼女の足元には、もう光のない携帯が置かれている。
周囲では、観測者の「目」がほぼ完全に再生し、冷たい光を放ち始めていた。
【警告:フォーマット、最終段階へ移行】
【全データ消去、10秒後開始】
「みんな……」羅夢は、周囲の光の輪を見渡した。「ありがとう」
光の粒子が、優しくきらめく。まるで、答えるように。
彼女は、携帯の最後のメッセージを思い出した。
『観測者の『目』を中継器として利用する』
「小弥」彼女は小声で呼びかけた。「お願い。最後に、力を貸して」
静寂。
そして——
壊れたはずの携帯の画面が、かすかに光った。
【……了解……】
かすかな、かすか過ぎる文字。
【……緊急起動……最終エネルギー残留……】
【……逆方向穿越プロトコル……起動……】
携帯が微かに震え、画面にカウントダウンが表示された。
【……接続開始……】
【……現実世界座標……ロックオン……】
【……全エネルギー……経路確保……】
周囲の光の輪が、急激に回転し始める。曹操たちのデータが、最後の力を振り絞って、現実世界への道をこじ開けようとしている。
【……カウントダウン開始……】
小弥の文字が、画面に大きく表示される。
【3!】
観測者の「目」が、強く光る。
【フォーマット開始】
データ消去の波が、接合点全体に広がり始める。光の輪が、その波に食い込まれ、ゆがむ。
2!
羅夢の意識が、激しく揺さぶられる。現実世界への道が、開きつつある。が、不安定だ。壊れそうだ。
「頑張れ……」彼女は歯を食いしばる。「みんなの力を……無駄にしない……」
1!
その瞬間——
現実世界の病室で、堀内教授が人工呼吸器のチューブを外した。
「——!」
機械的な呼吸音が止む。
モニターの心拍数が、ゆっくりと下がり始める。
「夢夢!」母親の叫び声。
0!
異世界で、全ての光が一点に集中する。
携帯の画面が、最大輝度で光る。
【穿越、実行!】
観測者の「目」から、データ消去の波が羅夢に到達する、その一瞬前に——
光が爆発した。
現実と仮想の境界が、溶ける。
現実世界・病室
「患者、心室細動!」看護師の叫び声。
モニターの心拍が、不規則に暴れ始める。
「除細動器、準備!」堀内教授が命じる。
その時、病室のすべての電気が、一瞬消えた。
「停電!?」
非常灯すら消える。真っ暗。
だが、次の瞬間——
羅夢のベッドが、青白く光り始めた。
「何だ……!?」森田医師が目を見開く。
光は、ベッドから溢れ出し、天井へ、壁へ、床へと広がる。幾何学模様のような、データの流れのような光。
そして、光の中に、声が聞こえる。
『行くぞ、羅夢!』
『はは! 面白い!』
『必ず護ります』
『計算通りです』
『最後の一手です』
複数の声。重なった声。男たちの声。
「誰の声……?」母親が震える声で聞く。
光が、さらに強くなる。
モニターの脳波が、計測不能なレベルまで上昇する。
「患者、大変です! 脳波が——」
その言葉が終わらないうちに、羅夢の身体が、ベッドから浮き上がり始めた。
「!」医師たちは、信じられない光景を目にする。
羅夢の体が、ゆっくりと、光に包まれながら浮遊する。目はまだ閉じたまま。だが、表情は穏やかだ。
光の中に、影が見える。
鎧をまとった男たちの影。槍を持つ者。剣を持つ者。扇を持つ者。
「あれは……?」父親が呟く。
影たちが、羅夢を取り囲む。そして、一斉に、彼女を支えていた光を、そっと地面へと降ろす。
まるで、任務を終えた兵士たちが、君主を無事に届けたように。
影が、次第に薄れていく。
最後の一瞬、一番大きな影——曹操らしき影が、わずかに頷く。
そして、すべての影が消える。
光も、次第に収まる。
羅夢の身体が、ベッドに静かに戻る。
電気が復旧する。モニターの音が戻る。
ビープ——ビープ——
規則的な心拍音。
「心拍……安定しています」看護師が報告する、驚きの声。
「脳波は?」堀内教授が急いでモニターを見る。
そこには、正常な覚醒時の脳波パターンが、はっきりと表示されている。
「……ありえない」
その時、羅夢のまぶたが、わずかに動いた。
「……っ」
長い、長い間、動かなかったそのまぶたが、ゆっくりと上がる。
焦点の合っていない目が、天井を見つめる。
そして、ゆっくりと、横を向く。
父と母の、泣き腫らした顔を見る。
「……お父さん……お母さん……」
かすれた、しかし確かな声。
「夢夢!」母親が、娘に抱きつく。
父親も、涙を流しながら駆け寄る。
医師たちは、ただ呆然と立ち尽くすしかない。
モニターは、完全に正常な数値を示し続けている。
森田医師が、ふと、ベッドの傍らに目をやる。
そこには、何もないはずだった。
が、床の上に、小さな、焦げたような跡がある。まるで、何かが置かれていた跡のようだ。
異世界・時空の接合点
静寂。
観測者の「目」は、まだそこにある。が、動かない。フォーマットのプロセスは、途中で止まっている。
データ消去の波は、すでに消えた。
そこには、誰もいない。
曹操も、信長も、趙雲も、諸葛亮も、毛利もいない。
羅夢もいない。
ただ、壊れた携帯が、地面に転がっている。画面は完全に砕け、もう二度と光らない。
風が吹き、データの塵を舞い上げる。
その塵が、ゆっくりと、観測者の「目」の上に降り積もる。
【警告:メインターゲット『異常変数』消失】
【フォーマット、一時中断】
【観測者プロトコル、待機モードへ移行】
「目」の光が、次第に弱まる。
そして、完全に消える。
接合点には、再び静寂が訪れる。
幾つもの時代が歪んで融合したこの場所で、ただ一つ、確かなことが起きた。
一人の少女が、家に帰った。
彼女を送り届けた英雄たちは、もう此処にはいない。
だが、彼らの物語は、彼女の中に生き続ける。
現実世界・病室
「医師、患者の意識は完全に回復しています!」
「バイタル、すべて安定!」
羅夢は、父母に抱きしめられながら、ぼんやりと天井を見つめていた。
記憶が、ゆっくりと戻ってくる。
雷雲。曹操。信長。趙雲。火鍋。呂布。観測者。
小弥。
「……みんな」
彼女の頬を、涙が伝う。
「ありがとう」
彼女は、そっと手を上げ、胸の辺りに当てた。
そこには、何もない。携帯は、もうない。
でも、確かに感じる。
温かい、光の記憶。
「夢夢、どこにいたの? 何が起きたの?」母親が涙ながらに聞く。
羅夢は、ゆっくりと顔を向け、微笑んだ。
「長い、長い夢を見てた。すごく不思議で、怖くて、でも……すごく温かい夢」
彼女は、窓の外を見た。晴れ渡った青空。
「でも、もう大丈夫。帰ってきたから」
堀内教授が近づいてきた。
「羅夢さん、覚えていますか? 何が起きたか」
彼女は教授を見て、深く考え込み、そして答えた。
「歴史の授業を受けてました。すごく……リアルな授業」
教授は眉をひそめたが、それ以上は追求しなかった。医学的には、説明のつかないことが多すぎる。
「とにかく、ゆっくり休んでください。検査をしますから」
「はい」
医師たちが去り、部屋には家族だけが残った。
羅夢は、ベッドの上で、そっと手を握りしめた。
そこには、何もない。
でも、確かに感じる。
あの温かさ。
あの光。
そして、彼女は誓った。
絶対に忘れない。
曹操の冷静な指揮。
信長の熱い笑い。
趙雲の優しい眼差し。
諸葛亮と毛利の深い知恵。
小弥の、陽気な声。
絶対に、語り継ぐ。
現実世界の、普通の日々が戻ってきた。
が、何かが、確かに変わっていた。
窓の外、遠くの空に、一筋の雲が、あの異世界の雷雲に似ているような気がした。
ただの偶然だろう。
彼女は、そっと目を閉じた。
「お休み、みんな」
そして、現実世界で、彼女は初めての、本当の眠りについた。
一方、明志大学の研究室では——
田中教授が、強制切断を行おうとした瞬間、システムが予期せぬエラーを起こした。
モニターには、一瞬だけ、不可解なメッセージが表示された。
【外部からのデータ干渉を検知】
【ソース:不明】
【内容:『ありがとう、そして、さようなら』】
そして、すべてのデータが、ロックされた。
被験者#998——羅夢のデータは、完全に消失していた。
田中教授は、モニターを見つめて動かなかった。
「……何が起きた?」
彼の問いに、答える者はいない。
ただ、研究室の片隅で、一つの古いモニターが、かすかに、規則的ではないパターンで点滅し続けていた。
まるで、何かを、ずっと見守り続けているように。




