天機匣争奪戦
テーブルの上で、ロック画面の猫がのんびりとあくびを続けている。
曹操の細い目が、その発光する四角い板と、画面に映る奇怪な生物と、まだ九十度に折れたまま微動だにしない羅夢の三者を、鋭く行き来させた。
「……妖兽か」
彼はゆっくりと手を伸ばした。指先がケースに触れる。冷たい、滑らかな感触。彼がこれまで知るいかなる玉や金属とも異なる。
「其の形、鏡に似ておるが……」織田信長が興味深そうに首を傾げた。「光を放ち、内に獣を飼うとは」
「待って!それ私の——」羅夢が慌てて顔を上げたが、もう遅かった。
曹操は携帯を掌に収めた。その動作は驚くほど自然で、まるで玉璽を扱うように。
画面の猫——まんじゅうは、ちょうど大きく口を開けたあくびの終わりで、少し間抜けな表情を固めたままだった。配字の【今日も頑張ろう!】の文字が、光っている。
曹操の眉が微かに動いた。
「瞳孔、縦に尖る。毛色、橙に白斑。耳、尖りて短し」彼は冷静に観察した。「然れど、目に凶気無し。寧ろ……愚鈍の相あり」
「愚鈍って——」羅夢が反射的に抗議しかけて、言葉を飲み込んだ。今それ言ってる場合か。
「ふむ」曹操は携帯を傾け、角度を変えて見た。「此の『獣』、動かぬか?」
「動きませんよ!写真です写真!ただの——」羅夢の説明は、信長の動きで遮られた。
「曹公、それでは」
信長の手がさっと伸び、曹操の掌からするりと携帯を奪い取った。動作は流れるような早業。曹操の目が一瞬鋭く光ったが、手は引っ込めた。
「おお」信長は携帯をひっくり返し、裏側のカメラレンズやアップルのロゴを眺めた。「軽く、薄し。何の材質なる?」
そして彼は、何気なく側面のボタンを押した。
「カチャ」
小さな音と共に、画面が暗転——そしてすぐに再び光った。
前置きカメラが起動した。
信長の顔が、画面いっぱいに大写しになった。
彼は一瞬、目を見開いた。
画面の中の自分も、同じように目を見開いた。
「……なるほど」信長はゆっくりと口角を上げた。「此れは面白い」
彼は携帯を少し遠ざけ、自分の全身像が映るように調整した。南蛮胴具足の威厳、陣羽織の赤、乱れた髪の毛先まで、驚くほど精細に、鮮明に、リアルタイムで映し出されている。
「鏡ならぬか」信長が低く笑った。「鏡より遙かに明瞭なり。色すら正し」
彼は首をかしげた。画面の中の信長も首をかしげた。
左に向いた。右に向いた。
眉を上げた。顎を引いた。
「お主」彼は突然、まだお辞儀の姿勢から完全に立ち上がっていない羅夢を見た。「此の『鏡』、如何にして己を映すようにする?」
「え?あ、それただの——自撮りモードで——」
「自撮り?」信長は聞き慣れない言葉を繰り返し、そしてまた画面に視線を戻した。「ならば、此のままか」
彼は携帯を真正面に向け、背筋を伸ばし、口元にいつものあの、どこか不敵で、どこか楽しげな笑みを浮かべた。
カメラはそのすべてを逃さず記録した。
「ストップ!やめて!それ私の携帯だってば!」羅夢がようやく飛び出して、手を伸ばそうとした。
曹操の手が、静かに彼女の前に差し出された。止めるという意味ではない。ただ、「待て」という意思表示だ。
「織田殿」曹操の声は低く、冷静だった。「其の『鏡』、暫く貸されよ」
「ん?」信長は視線を上げず、もうすでに角度を変えて別のポーズを試していた。「今は忙しい。後でだ」
「今だ」曹操の声に、微かな刃が潜んだ。
会議室の空気が、再び張り詰めた。
羅夢は心の中で叫んだ:まずいまずいまずい!こっちはスマホ一台で、あっちは天下取り合ってる二人だよ!?どうすりゃいいの!?
そして、その時。
狂ったシステム音が、再び華麗に(そしてタイミング悪く)介入してきた。
【ピピー!ユーザー間の物品争奪戦を検知!】
【アイテム:『スマートフォン(iPhone 14 Pro)』】
【現在所持者:織田信長】
【競合者:曹操】
【システム提案:公平を期すため、『じゃんけん』による決着を推奨します!】
【ルール説明:グーは拳を握ること。チョキは中指と人差し指を伸ばすこと。パーは掌を開くこと。三戦先勝?一発勝負?お好みでどうぞ!】
【参考動画を再生しますか? Y/N】
曹操:「……」
信長:「……」
羅夢:「いやいやいやいや!?じゃんけん!?なんでシステムがじゃんけん提案してくるの!?それより早く止めてよ!バッテリー減るしデータ通信量——あ、圏外か」
信長はやっと携帯から目を離し、曹操を見た。そして、あの不敵な笑みを深くした。
「面白い。曹公、如何する?此の……『じゃんけん』とやらで勝負か?」
曹操の目が細くなった。彼は信長の手にある、まだ前置きカメラが起動したままの携帯を見つめ、そしてゆっくりと自らの手を見た。拳を握り、開き。
「……児戯に等し」彼は低く言った。「然れど」
彼は袖を整え、改めて信長と向き合った。
「一勝負、付き合おう」
「おお!」信長は明らかに楽しそうだった。携帯をテーブルに置き(画面はまだ自撮りモード)、両手を腰に当てた。「では、どうする?『三戦先勝』とやらか?」
羅夢は目を覆いたくなった。マジで。マジでじゃんけんする気かこの二人。
そして彼女は気づいた——信長がテーブルに置いた携帯の画面に、小さな数字が表示されている。
78% → 77%
バッテリーが減っている。当然だ。カメラ起動しっぱなしなんだから。
「あ!バッテリーが——」彼女が叫びかけた瞬間。
【ピピピ!ユーザー羅夢の緊急発言を検知!】
【システム判断:物品争奪戦は一時中断!新たな問題発生!】
【問題:『スマートフォン(iPhone 14 Pro)』のエネルギー源が枯渇しつつあります!】
【現在残量:77%】
【推定使用可能時間:カメラ常時起動状態であと3時間42分!】
【警告:エネルギー源が完全に枯渇すると、『天機匣』は永久的に機能を停止します!】
【提案:エネルギー源を補充する方法を即刻協議してください!】
信長の笑みが一瞬引いた。「……機能停止?」
曹操の目が鋭く光った。「永久的に、か」
二人の視線が、再びロック画面の猫——ではなく、その下に表示されたバッテリーマークと数字に集まる。
77%。
そして、確かに、さっきより1%減っている。
「此の『数字』が、其の……エネルギー源の残量か」曹操がゆっくりと言った。「減少する。如何すれば補充できる?」
信長は携帯を再び手に取り、今度は慎重に、裏側も含めて仔細に観察した。「接続する場所があるのか?充填する口は?」
羅夢は絶望的に頭を抱えた。「充電口はあるけど……ここにコンセントないし!充電器もないし!」
「コンセント?充電器?」信長は聞き返した。
「つまり……えっと……」羅夢は頭をフル回転させた。どう説明すればいい?「この『天機匣』は……そう、馬のようなものです!走り続けると疲れる!だから、時々、特殊な……『水』を飲ませて休ませないと!その『水』が今、ここにないんです!」
馬の例えはどうかと思ったが、とりあえず二人の顔に「理解した」という表情が浮かんだ。
曹操が深く頷いた。「ならば、其の『特殊な水』を求めねばならぬな」
「しかし」信長が携帯の画面をまた見た。前置きカメラはまだ起動しており、彼の顔が映っている。「此の『鏡』、今はまだ使える。ならば、使える内に存分に使うべきでは?」
「待って!バッテリー無駄遣いしないで!」羅夢が必死に手を振った。「それ消して!カメラ止めて!」
「如何すれば止められる?」信長は無邪気に——というより、本当に知らないふりをして——聞き返した。
「側面のボタン!さっき押したところ!長押し!いや、ちょっと待って、ホームボタン——あ、iPhone 14 はホームボタンないんだった!じゃあサイドボタンと音量アップを同時に——」
羅夢の説明は、またしてもシステムの声で遮られた。
【ドロンドロン~!新規ミッション発動!】
【ミッション名:『天機匣のエネルギー危機を解決せよ!』】
【内容:ユーザー羅夢は、本時空において『スマートフォン(iPhone 14 Pro)』の充電手段を確保しなければなりません!】
【制限時間:72時間(現実世界時間と同期)】
【成功報酬:バッテリー残量+20%、『時空安定度』+5%、新機能『オフライン翻訳』アンロック!】
【失敗ペナルティ:バッテリー完全消耗、『天機匣』永久停止。ユーザー羅夢は本時空において『便利な小道具』を失い、生存率が0.008%に低下します。】
【ヒント:本時空には『雷』『地熱』『特定の鉱石』など、原始的なエネルギー源が存在します!創意工夫を重ねて、充電手段を見つけ出しましょう!】
【応援してます!(´▽`)ノシ】
羅夢は呆然と空を見上げた。
雷?地熱?鉱石?
つまり……摩擦発電?火起こし?鉱石を磨いて静電気?
そんなので iPhone が充電できるわけないだろ!?
「……面白い」信長が口元を上げた。「『雷』か。ならば、雷雨の日にて高き所に掲げれば良いのか?」
曹操は冷静にそれを却下した。「無謀すぎる。雷は制御できぬ。『地熱』……温泉か。あるいは『鉱石』……磁石のようなものか」
二人は、まるで軍議をしているように、真剣に「如何にして異世界でスマホを充電するか」を論じ始めた。
羅夢は虚脱して床に座り込んだ。
目の前で、戦国時代の革命児と三国時代の梟雄が、彼女の iPhone の充電方法について熱心に討論している。
信長は「火薬の爆発力で発電できないか」と言い出し、曹操は「水力を用いるのはどうか」と提案した。
バッテリーは76%に減っていた。
そして彼女はふと、現実世界のことを考えた。
今、何時だろう。
コンビニのシフトはどうなった?
学校には?
あのハゲ店長は、彼女が無断欠勤したって報告しただろうか?
そして——一番大事な——5000万円の賠償金。
「あああ……」彼女はうつむいて、額を膝に埋めた。「どうしてこうなった……」
その時。
信長が何かを発見したような声を上げた。
「おい、此れは何だ?」
彼は携帯の画面を、羅夢と曹操の方に向けた。
画面には、信長の自撮りではなく——ロック画面の猫の写真の上に、小さな四角いアイコンが幾つか表示されていた。
その中の一つに、赤い丸の中に白い数字「1」が付いている。
「此の赤き印は?」信長が指さした。
羅夢は顔を上げ、ちらりと見て——凍りついた。
それは。
メッセージアプリの通知マークだった。
しかも、送信者名が表示されている。
『店長』
「……!」羅夢が飛び上がらんばかりに立ち上がった。「触らないで!それ開けないで!」
遅すぎた。
信長の指が、興味津々でその赤いアイコンをタップした。
画面が切り替わる。
メッセージの内容が、大きく表示された。
『羅さん、今日のシフトどうした?無断欠勤は困るよ。電話もつながらないし。体調悪いなら連絡くれないと。明日も出勤できる?店長』
そして、その下。
既読になっている。
信長は眉を上げた。「『店長』……此れは誰だ?『シフト』『無断欠勤』……何かの暗号か?」
曹操も身を乗り出して画面を見た。「『体調悪いなら連絡くれないと』……此の『店長』という者、汝を気遣っているようだな」
羅夢は顔が真っ青になった。
気遣ってるわけない!あのハゲが!あのメールは完全に催促だ!脅しだ!
「いや、それは——」
彼女の言葉は、次の瞬間、画面に新たに表示されたメッセージで遮られた。
『そういえば、羅さんが契約したVRテストの会社から連絡があったよ。なんでも「テスト中に異常な脳波パターンが検出された」って。大丈夫?もし何かあったら、店長が代わりに連絡入れとくよ。』
『会社の連絡先教えてくれる?』
静寂。
重苦しい、氷のような静寂が会議室を覆った。
信長はまだ理解できていないようだったが、曹操の目が一瞬、鋭利に光った。
「……VRテスト?会社?」彼はゆっくりと、一語一語を噛みしめるように繰り返した。「異常な脳波パターン?」
彼の視線が、羅夢にゆっくりと向けられた。
「汝」曹操の声は、今まで以上に低く、危険な響きを帯びていた。「此の『天機匣』を通じて、外界と通じているのか?」
「いや、それは——圏外だから——ただの——」羅夢は慌てて言い訳を考えたが、頭が真っ白だった。
そして、システムが、またしても最高の(最悪の)タイミングで介入してきた。
【ピピピ!外部からのメッセージ受信を検知!】
【送信者:『店長』】
【内容解析:ユーザー羅夢の現実世界における社会的関係者(雇用主)から、ユーザーの異常状況に関する問い合わせが行われています!】
【警告:本メッセージの存在は、ユーザーが『本時空に完全に閉じ込められているわけではない』ことを示唆しています!】
【推論:現実世界と本時空の間に、微弱な情報の往来が存在する可能性があります!】
【提案:此の通信経路を利用して、救助を要請することはできませんか?】
【ただし、成功率は0.0003%です!お試しください!(^▽^)/】
信長が、ゆっくりと顔を上げた。
彼の目は、もう遊びや好奇心ではなく、探るような、鋭い光を宿していた。
「外界……か」彼は低く笑った。「面白い。つまり、此処は『外』ではないのだな?」
曹操は携帯をじっと見つめ、そして羅夢を見た。
「汝」彼は言った。「此の『天機匣』、『外界』と如何につながっている?説明せよ」
「あるいは」信長が腰の太刀に手をかけた。動作はゆっくりだが、確かに。「此の『店長』という者に、我等の存在を知らせようとしているのか?」
「違います!絶対違います!」羅夢は必死に手を振った。「ここは……ここは……」
彼女は言葉に詰まった。
どう説明すればいい?
VRが爆発して、三国と戦国がごっちゃになった時空に閉じ込められて、しかも現実世界からメールが来てて、賠償金5000万円がかかってて——
「ここは」彼女は絞り出すように言った。「……夢です。悪夢です。だから早く醒めたいんです」
嘘だ。全くの嘘だ。
でも、彼女に他に何が言える?
曹操と信長は、彼女を見つめた。
長い、長い沈黙。
そして曹操が、静かに口を開いた。
「夢、か」
彼は携帯の画面を見た。店長からのメッセージが、まだそこに表示されている。
「然らば」彼はゆっくりと言った。「此の『夢』の中で、我等は如何すれば良い?」
信長は笑った。短く、冷たい笑いだ。
「どうするか?」
彼は携帯を、そっとテーブルに置いた。
「此の『天機匣』が外界と通じているなら——」
彼の目が、鋭く光った。
「——外界を、此方へ引きずり込めば良いだけのことだ」
羅夢の背筋が凍った。
曹操は微かに頷いた。
「然り。ならば、此の『夢』を、我等の『現実』に変えれば良い」
そして二人は、再び羅夢を見た。
今度の視線は、最初の好奇や警戒ではなく——
興味。
純粋な、探求心に満ちた、危険な興味。
システムの声が、軽快に響いた。
【ユーザー羅夢の評価が更新されました!】
【曹操:信用度 5% → 3%(外部との通牒を疑っています)】
【織田信長:興味度 70% → 85%(あなたとあなたの『天機匣』が、新たな世界への鍵かもしれないと思い始めました)】
【新たな目標が設定されました:72時間以内に充電手段を確保し、『天機匣』の機能を維持せよ!さもなくば、両名の『興味』が『脅威』に変わるかもしれません!】
【バッテリー残量:75%】
【がんばってね!(๑•̀ㅂ•́)و✧】
羅夢は、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
目の前には、彼女の iPhone を「天機匣」と呼び、その背後にある「外界」に興味津々な、二人の歴史的な怪物。
手元には、あと75%しかないバッテリー。
頭の中には、5000万円の賠償金と、現実世界から迫りくる連絡。
そして心の中には、たった一つ、渇いたように繰り返される疑問——
なんで、私が?
なんで、時給2000円のバイトが、こうなっちゃうの?
テーブルの上で、携帯の画面が暗くなり始めた。
自動ロックの時間だ。
最後に映ったのは、店長からのメッセージ画面と——その上に、ふと現れた新しい通知のプレビュー。
『VRテスト会社・ソラレアイズ社からのお知らせ:本日のテストにおける異常脳波について、詳細な報告書を提出してください。期限内に提出がない場合、契約違反とみなされる可能性があります——』
画面は真っ暗になった。
会議室には、三人の息遣いだけが残った。
そして羅夢は、思った。
ああ。
もう。
どうにでもなれ。




