趙雲の困惑
信長の熱い演説の余韻がまだ洞窟に残る中、趙雲は黙って携帯の画面に見入っていた。
羅夢が、前夜の曹操に続き、趙雲にも『三国志演義』を見せていた。特に、彼自身が活躍する「長坂坡の戦い」のシーンを。
しかし、趙雲の反応は曹操とは全く違った。
彼は一言も発せず、ただじっと画面を見つめている。時に眉をひそめ、時に微かに首を振る。
エピソードが終わると、彼は深く息を吐いた。
「……なるほど」
「どうでしたか?」羅夢が尋ねた。
趙雲はしばらく考え込み、そして静かに口を開いた。
「雲、七進七出など、していない」
「え?」
「実際には、三進三出であった」趙雲の声は、事実を述べるように淡々としていた。「最初の突入で幼主(劉禅)を発見。二度目に敵陣を突破し、三度目に自軍に戻った」
彼は指で数えながら説明する。
「七度も往来すれば、馬も疲れる。敵もそれだけの隙を与えぬ」
「でも、ドラマでは――」
「わかっている」趙雲はうなずいた。「物語として、面白くするためであろう。しかし……」
彼の目が、画面の中の、敵兵を数十人も薙ぎ倒している「自分」を見つめていた。
「此の槍さばき、実際にはここまで大げさではない。一撃一撃、無駄がないように戦った」
「確かに、ドラマは派手に作りますから……」
趙雲は突然、羅夢を見た。
「紙と筆はあるか?」
「え? 紙と筆?」
「此の匣に、記録する機能はないか?」
「メモ帳ならありますけど……」
「それで良い。借りよう」
羅夢はわけがわからないまま、メモ帳アプリを開き、趙雲に渡した。
趙雲は慎重に画面をタッチし、指で文字を書き始めた。慣れない操作だが、何とかこなしている。
【メモ帳:新規ファイル】
【タイトル:『三国志演義』史実相違点報告(趙雲)】
「えっと……趙雲さん、何をしてるんですか?」
「記録している」趙雲は真剣な表情のまま答えた。「物語と実際の違いを。後世の者が誤解せぬように」
彼は書き始めた。
一、長坂坡の戦いについて
・劇中:七進七出、敵兵数百を討つ
・実際:三進三出、敵兵数十を討つ(主に突破のため)
・備考:幼主(劉禅)を懐に抱え、無事を最優先とした。派手な戦い方はしていない。
二、槍の技について
・劇中:大回転、跳躍技が多い
・実際:直線的、効率的。馬を駆っての突撃が主
・備考:馬上での槍は、振り回すものではない。刺し、払うが基本
三、鎧の描写について
・劇中:銀色に輝く、装飾が多い
・実際:実戦用、地味で丈夫。輝きは手入れによる
・備考:夜戦では光る鎧は不利である
羅夢は呆然とそれを見ていた。
「趙雲さん……そんなこと、しなくてもいいですよ? みんな、ドラマはフィクションってわかってますから」
「わかっている者もあろう」趙雲はメモを書き続けながら言った。「が、わからぬ者もいる。ならば、事実を記しておくべきだ」
曹操が興味深そうに近づいてきた。
「何をしている、趙雲」
「曹公」趙雲は礼儀正しく一礼し、メモを見せた。「物語と実際の記録を、整理している」
曹操はそれを読み、深くうなずいた。
「……確かに、あの劇は誇張が多かったな。我が軍勢も、実際にはもっと整然としていた」
「曹公も、ご自分の記録を?」趙雲が真剣に提案した。
「いや、構わぬ」曹操は手を振った。「物語は、誇張されてこそ面白い。史実は、学者に任せておけ」
「しかし――」
「趙雲よ」諸葛亮が声をかけた。「貴方の真面目さは理解する。然れど、人々が求めるのは、時に史実ではなく、英雄の『物語』なのだ」
「丞相、それでは――」
「物語の力は、時に実際の戦い以上に大きい」諸葛亮は扇をあおぎながら説いた。「兵士たちは、『七進七出の趙雲』の話を聞いて勇気を得る。其れが、戦場で実際に七度往復することより、重要かもしれぬ」
趙雲は考え込んだ。
信長が大笑いしながら割り込んできた。
「はは! 趙雲、其れはわしも同意だ! わしの『戦国BASARA』も、実際のわしよりずっと派手だ! だが、面白いではないか!」
「面白ければ、良いと?」趙雲は真剣に聞き返した。
「そうだ! 歴史とは、勝者が作るもの! ならば、面白くしてやろうではないか!」
趙雲は再びメモ帳を見つめた。
彼の書いた「史実相違点報告」が、そこにある。
そして、画面の中の、派手に槍を振るう自分。
「……雲は、あのような華美な槍は振れぬ」
「構わぬ」曹操が言った。「其れで良い。趙雲は趙雲のままあれば良い」
趙雲は深く息を吐き、メモ帳を閉じようとした。
その時、アプリが反応した。
【保存しますか?】
【はい / いいえ】
彼は「はい」をタップした。
【保存完了】
【ファイル名:『史実報告_趙雲.txt』】
【バッテリー消費:0.1%】
【現在のバッテリー:228%】
「保存、した」趙雲は呟いた。「いつか、必要とする者がいるかもしれぬ」
羅夢はほっと胸を撫で下ろした。
「よかった……でも、趙雲さん、そんなに真剣に考えなくても」
「いや、考えるのは良いことだ」毛利が口を挟んだ。「事実と伝承の区別は、指導者として重要である」
「我も同意だ」諸葛亮もうなずいた。「ただ、時には、伝承の力も利用せねばならぬ」
趙雲は、皆の言葉を聞き、ゆっくりとうなずいた。
「……おっしゃる通りかもしれません。しかし、雲自身としては、あくまで事実を……」
彼の言葉が終わらないうちに、洞窟の外から物音がした。
全員が即座に警戒態勢に入る。
趙雲はメモ帳を閉じ、槍を手に取った。
「敵か?」
曹操が洞窟の入り口に近づき、外を覗いた。
「……いや、敵ではないようだ」
外には、奇妙な光景が広がっていた。
データ残留体の群れが、ゆっくりと通り過ぎている。前回見たものと同じ、顔の特徴が薄い、時代錯誤の服装をした人々だ。
が、今回は少し様子が違う。
彼らの何人かが、何かを囁き合っている。
『……趙雲……七進七出……』
『英雄……伝説……』
『あの槍……眩しい……』
囁き声が、風に乗って聞こえてくる。
趙雲の目が見開かれた。
「あの者たち……私のことを……」
「貴方の『物語』を、知っているようだな」諸葛亮が分析した。「データ残留体は、此の世界の記憶の断片かもしれぬ。ならば、有名な伝承も、断片的に記憶しているだろう」
信長が興味深そうに外を覗いた。
「おお! ならば、わしの『戦国BASARA』も、彼らは知っているかもしれんな!」
「多分、知っているでしょう」羅夢はうなずいた。「でも、彼らは記憶が曖昧ですから……」
データ残留体の群れが、洞窟の前で突然止まった。
そして、一斉に趙雲の方を見た。
その目には、はっきりとした「認識」の光があった。
『趙雲……だ……』
『長坂坡の……』
『七進七出の……』
彼らは、ゆっくりと手を伸ばし始めた。触れようとしている。
趙雲は一歩後退した。
「どうすれば……」
「動くな」曹操が命じた。「敵意は感じられぬ。ただ、貴方を『知っている』だけだ」
確かに、データ残留体たちの動きには敵意がない。好奇心と、ある種の憧れのようなものが混じっている。
一人の残留体が、趙雲の槍に手を伸ばした。
その手が、槍に触れる。
一瞬、青白い光が走る。
残留体の顔に、かすかに表情が浮かぶ。
『……ありがとう……』
囁くような声。
そして、残留体は手を引っ込め、群れに戻り、ゆっくりと去っていった。
残りの残留体たちも、彼にうなずき、去っていく。
静寂が戻る。
趙雲は、自分の槍を見つめていた。
「……あの者たちは、何だった?」
「此の世界の、記憶の亡霊だろう」毛利が呟いた。「貴方の伝承を、心の支えにしていたのかもしれぬ」
諸葛亮は深く考え込んでいた。
「もしや……此の世界の歪みは、人々の『記憶』や『伝承』そのものが、形を成したものではあるまいか」
「記憶が、現実に?」羅夢は驚いた。
「ありえないことではない」諸葛亮はうなずいた。「強力な思念は、時空さえ歪める。ましてや、幾つもの時代の記憶が、無理矢理一箇所に押し込められた此の世界では……」
趙雲は、去っていく残留体たちの背中を見つめていた。
そして、彼はふと、携帯のメモ帳を開き、先程の「史実相違点報告」を削除しようとした。
「趙雲さん?」羅夢が声をかけた。
「……いや、良い」趙雲は手を止めた。「此のままにしておこう」
「でも、さっきまで史実が大事って――」
「史実は大事だ」趙雲は静かに言った。「しかし、あの者たちが求めたのは、史実ではなく、『伝承』だった」
彼は槍をしっかりと握りしめた。
「ならば、雲は……両方あれば良い。史実としての趙雲と、伝承としての趙雲と」
曹操が微かに笑みを浮かべた。
「成長したな、趙雲」
「曹公、お褒めいただき、光栄です」
信長は趙雲の肩をドンと叩いた。
「そうだ! わしもだ! 史実の織田信長と、伝承の第六天魔王、両方あってこそだ!」
その時、小弥の声が響いた。
【ユーザー趙雲のデータ更新!】
【新ステータス追加:『伝承の受容』】
【効果:伝承に基づく能力が+10%上昇!】
【説明:歴史的人物が、自らの伝承を受け入れると、その力が現実のものになります!】
【面白い現象ですね!(ノ◕ヮ◕)ノ:・゜✧】*
趙雲の槍が、かすかに青白く光った。
「……何だ、此れは?」
「伝承の力が、現実化し始めたようです」羅夢は説明した。「趙雲さんが、自分の伝承を受け入れたから……」
趙雲は槍をじっと見つめ、そしてゆっくりとうなずいた。
「ならば、此の力で、此の世界を正す手助けをしよう」
彼の目には、新たな決意が宿っていた。
史実と伝承。
両方を受け入れ、前に進む決意。
夜明けが近づいていた。
一行は、再び旅の準備を始めた。
趙雲は、最後にもう一度メモ帳を開いた。
【ファイル名:『史実報告_趙雲.txt』】
【編集しますか?】
彼は「はい」をタップし、最後に一行、追加した。
・補足:伝承の力も、時に現実を動かす。故に、両方を大切にしたい。
保存。閉じる。
彼は顔を上げ、朝の光が差し込み始める洞窟の入り口を見た。
「行きましょう」
その声は、以前より少しだけ、確信に満ちていた。
現実世界では――
病院のモニターに、矛盾を調和させるような、安定した脳波パターンが記録されていた。
医師が記録を見つめ、呟いた。
「……相反する概念の統合? 此れは、高度な認知機能が働いている証拠だ」
彼らにはわからない。
その患者が、千年の時を隔てた武将の、史実と伝承の狭間で、自らの在り方を見出そうとする瞬間に立ち会っていることなど。




