現実世界の注視
東京・聖恵医科大学付属病院 集中治療室
午前6時47分。
モニターの波形が、またしても鋭く跳ねた。
「……まただ」
若い神経内科医、森田は記録用タブレットにメモを走らせた。彼の目の下には、一晩中続いた監視の疲れがくっきりと刻まれている。
「第7回目の異常波形。持続時間、3分28秒。振幅、前回より12%増加」
ベッドの上で、羅夢は静かに横たわっていた。人工呼吸器はついていない。自力で呼吸している。しかし、目は閉じたまま。まるで深い眠りについているようだが、脳波はそうではなかった。
「通常の昏睡状態の脳波とは、明らかに異なる」
ベッドサイドに立っていたのは、脳神経科学の権威、堀内教授だ。60歳を過ぎているが、目は鋭い。
「デルタ波、シータ波、アルファ波が、通常ではありえない組み合わせで同期している。しかも、ここに――」
彼はモニターの一点を指さした。
「――ガンマ波のバーストが、定期的に発生している。これは、通常、高度な認知活動を行っている時に見られる波形だ」
「教授、これは……夢を見ているのでしょうか?」森田が聞いた。
「夢を見るだけなら、ここまでのガンマ波は出ない」堀内教授は首を振った。「彼女の脳は、何かを『考え』、『計算』し、『判断』している。おそらく、非常に複雑な情報処理を」
「でも、彼女は昏睡状態です。外部からの刺激もほとんどありません」
「だからこそ、異常なのだ」
ドアがノックされ、看護師が入ってきた。
「堀内先生、警察の方がいらっしゃいました」
「警察?」堀内教授が眉をひそめた。
「はい。患者さんのご友人から届け出があったそうです。行方不明と意識不明の関連で」
「……通してくれ」
二人の刑事が入室した。年配の刑事と、若い刑事だ。
「堀内教授ですか? 私は警視庁捜査一課の佐藤です。こちらは同僚の高橋」
「何の用だ?」
「羅夢さんについて、いくつかお聞きしたいことがあります」佐藤刑事は穏やかな口調だが、目は鋭く部屋の中を見回していた。「まず、彼女の意識状態について、詳しく教えてください」
堀内教授はため息をつき、説明を始めた。
異常な脳波。通常の昏睡状態との違い。高度な認知活動の可能性。
それを聞きながら、佐藤刑事の表情が次第に険しくなっていった。
「……つまり、彼女はただ寝ているわけではない、と」
「その通りだ」
「何か、外部からの信号を受信している可能性は?」
「モニターは、外部からの電気的な干渉を検知していない」堀内教授は首を振った。「彼女の脳内で、自律的に起こっている現象だ」
高橋刑事がメモを取りながら質問した。「VR実験の事故、というのは本当ですか?」
「彼女が搬送されてきた時、付き添っていた大学の研究員がそう説明した」堀内教授は答えた。「だが、詳細はわからない。その実験について、我々は何も知らされていない」
佐藤刑事は深くうなずいた。
「わかりました。では、次に――」
その時、モニターが再び警告音を発した。
波形が乱れた。ガンマ波のバーストが、連続して発生する。
「またか……」森田医師が慌てて記録を始めた。
堀内教授はモニターを凝視し、呟いた。
「……何か、決断したな」
「え?」佐藤刑事が聞き返した。
「波形のパターンが変わった。さっきまでの『計算』から、『決断』へ移行している」
高橋刑事は怪訝な表情を浮かべた。「昏睡状態の患者が、決断?」
「私にも説明できない」堀内教授は正直に認めた。「だが、波形は嘘をつかない」
佐藤刑事は羅夢の顔をじっと見つめた。
22歳の中国人留学生。東京で一人暮らし。学費を稼ぐためにVR実験の被験者になった。
そして今、ここに横たわり、異常な脳波を発しながら、何かを「決断」している。
「……何を見ているんだ、君は」
彼の呟きは、誰にも聞こえなかった。
羅夢のアパート前
午前7時15分。
小林ゆりは、警察のパトカーの前で震えていた。朝の冷たい空気が、薄手のパーカーを通して肌に染みる。
「こ、これが、最後に連絡があった時の位置情報です」
彼女は自分のスマホを、若い婦人警官に見せた。画面には、地図アプリが表示されている。最後の位置――明志大学・第三研究棟。
「VR実験があったのは、ここです」ゆりは説明した。「羅夢さん、昨日の夜10時から実験があるって言ってました。でも、朝になっても戻ってこなくて、それで部屋を見たら……」
彼女の声が詰まった。
「落ち着いてください」婦人警官は優しく声をかけた。「では、羅夢さんが実験に向かう時、何か変わった様子はありませんでしたか?」
「いつもと変わらないです。ただ……あの実験、時給が高かったから、すごく必死で申し込んだんです。学費が足りなくて……」
「実験の内容は?」
「よく知りません。でも、歴史のVR体験だって聞きました」
「歴史のVR体験……」婦人警官はメモを取った。「危険性については?」
「羅夢さん、そんなこと言ってませんでした。ただ、契約書がすごく分厚くて、賠償金がすごいって……」
「賠償金?」
「はい。何かあったら、5000万円も払わなきゃいけないって……」
婦人警官の眉が動いた。「5000万円?」
「そうです。だから、羅夢さんもすごく怖がってたんです。でも、お金が必要で……」
ゆりは涙をこらえていた。友人が意識不明で、しかも携帯が消えている。何か悪いことが起きたに違いない。
「あのハゲ店長も怪しいです」彼女は突然言った。「コンビニの店長が、ロ夢さんにいやらしいことをしてて……それで、羅夢さんが実験に逃げるように申し込んだみたいです」
「コンビニの店長」婦人警官は真剣にメモを取った。「名前と場所を教えてください」
ゆりが情報を伝えている間、もう一人の刑事がアパートの管理人の話を聞いていた。
「確かに、昨夜は救急車が来ました。でも、患者さんがどうされたのか、詳しくは」
「カメラは?」
「エントランスにはありますが、部屋の廊下にはありません」
刑事たちは情報を集め、整理し始めた。
昏睡状態の留学生。
消えたスマホ。
高額な賠償金条項。
セクハラ疑惑の店長。
VR実験。
「事件性は高いな」年配の刑事が呟いた。「だが、どんな事件か……」
その時、ゆりのスマホが震えた。
新着メッセージ。
差出人は――羅夢。
『ユリ、タイジョウブ。イキテル。クワシクハアトデ。シンパイカケテゴメン』
「……え?」ゆりは目を見開いた。
「どうしました?」婦人警官が尋ねた。
「羅夢さんから……メッセージが……」
ゆりは震える手でスマホを見せた。
婦人警官はそのメッセージを読み、眉をひそめた。
「……文字化けしている?」
「でも、送信者は羅夢さんです! しかも、内容だって――『ゆり、大丈夫。生きてる。詳しくは後で。心配かけてごめん』って読めます!」
確かに、文字は一部化けているが、日本語として解読できる。
「今、送信されたのですか?」
「はい! ほら、たった今!」
婦人警官はすぐに上司に連絡した。
「被害者からメッセージが届きました。位置情報を追跡できますか?」
「やってみます」
だが、結果は期待外れだった。
「送信元の位置……不明です。電波塔を通っていない。直接、端末から端末へ?」
「そんなことあるんですか?」
「通常はありえない」
ゆりはメッセージを何度も読み返した。
生きてる。
大丈夫。
「羅夢さん……どこにいるの?」
彼女の問いかけに、誰も答えられなかった。
明志大学・第三研究棟B1 Lab-7
午前7時30分。
田中教授は、モニターの前で腕を組んでいた。40代半ば、髪はきちんと整えられ、白衣の上には研究室のIDカードがぶら下がっている。
「……面白い」
彼の目の前の画面には、複雑なデータが流れていた。脳波、心拍、発汗、体温――被験者#998、羅夢のバイタルデータだ。
「教授、警察が来ています」
若い研究員、山本がドアの外から声をかけた。
「警察?」田中教授は振り向かなかった。「何の用だ?」
「被験者#998について、質問があるそうです。意識不明になった経緯を」
「経緯は報告書に書いてある。実験中の予期せぬ神経負荷だ」
「でも、警察はもっと詳しく――」
「わかった。少し待たせろ」
山本は戸惑いながらも、「はい」と答えて去った。
ドアが閉まる。
田中教授は再びモニターに目を向けた。
「被験者#998……羅夢」
彼はマウスを動かし、データの一部を拡大した。
脳波のパターン。それは、通常の人間のものではなかった。複数の周波数が、奇妙に同期し、時折、強烈なバーストを起こす。
「通常のVR体験では、ここまでの神経活動は起こらない」
彼は別のウィンドウを開いた。そこには、実験システムのログが表示されている。
【22:17:03 被験者#998 接続開始】
【22:23:41 時空データ異常を検知】
【22:23:42 強制融合プロトコル起動】
【22:23:43 システム・オーバーロード】
【22:23:44 被験者#998 神経負荷限界突破】
【22:23:45 緊急遮断失敗】
【22:23:46 代替プロトコル起動:『文明融合・観測モード』】
【22:23:47 被験者#998 意識、融合時空に固定】
「文明融合・観測モード……」
田中教授はその言葉を噛みしめるように繰り返した。
このプロトコルは、彼が設計したものではない。システムが自動的に選択した、緊急時の代替案だ。
本来なら、接続を強制切断すべきだった。だが、システムはそれをしなかった。代わりに、被験者の意識を「融合時空」に固定した。
「なぜ?」
彼はログをさらに遡った。過去の実験記録。他の被験者。
同じような異常は、過去に3件あった。いずれも、被験者は昏睡状態に陥り、そのうち2人は後に死亡。1人は植物状態。
だが、彼らの脳波は、羅夢のような「活発な」ものではなかった。
ただ、昏睡。脳の活動は低下していた。
「被験者#998だけが、違う」
彼は羅夢の個人ファイルを開いた。
中国人留学生。経済的に苦しい。優秀な成績。日本語も堪能。
特筆すべきことなし。ごく普通の留学生だ。
「では、なぜ彼女だけが……」
モニターが警告音を発した。
被験者#998の脳波が、再び激しく乱れ始めている。今回は、前とはパターンが違う。
「同期している……複数のパターンが?」
田中教授は目を見開いた。
脳波が、いくつもの異なる「リズム」に分かれ、それらが互いに共鳴している。まるで、複数の人間の脳が、同じ頭蓋骨の中で活動しているかのようだ。
「ありえない……」
彼は記録を開始した。これは、前代未聞の現象だ。
もしこれが本当なら――
「複数の意識が、一つの身体で同期している?」
その考えに、彼の背筋が寒くなった。
VR実験のはずが、何か別のもの――意識の融合、時空を越えた共有、そんなものが起こっているのか?
ドアがノックされた。
「教授、警察の方がお待ちです。長くは待てないそうです」
田中教授は深く息を吸い込み、モニターから目を離した。
「……わかった。今行く」
彼は最後に、羅夢の脳波を見つめた。
乱れながらも、確かに「生きている」波形。
「君は、どこにいるんだ?」
答えはない。
彼は白衣を整え、ドアに向かった。
廊下では、二人の刑事が待っていた。
「田中教授ですか? 被験者#998、羅夢さんの実験について、お聞きしたいことがあります」
「はい、何でもどうぞ」
田中教授は平静な顔を保っていたが、心の中は渦巻いていた。
あのデータ。
あの脳波。
あの異常。
彼は確信した。
羅夢は、単なる事故の被害者ではない。
彼女は、何か大きな――とても大きなものの、中心にいる。
そして、彼はそれを見届けるつもりだった。
どんなことがあっても。
現実世界の朝は、まだ始まったばかりだった。
病院では、医師たちが異常な脳波を分析する。
警察は、消えた携帯と歪んだメッセージを追う。
VR実験室では、教授が禁断のデータに向き合う。
そして、誰も知らない異世界で――
羅夢は、歴史上の英雄たちと共に、北西へと歩き続けていた。
彼女の脳波は、彼らと共鳴し、同期し、新たな歴史を刻み始めていた。




