時給2000円の代償
羅夢が人生で後悔していることは三つある。
一つ目、ケチった末に選んだ東京のこのアパート。家賃5万8千円なのに、四畳半。
二つ目、学費を稼ぐために入ったコンビニで、ハゲ店長の痴漢まがい行為を、最初に思いきりぶん殴っておかなかったこと。
そして三つ目──これが一番致命的だった──たったの時給2000円で、あの忌々しい「没入型歴史VR体験テスト」の契約書にサインしてしまったことだ。
「羅さん、そこの棚、整頓終わりましたか?」
店長のねっとりした声が背後から聞こえ、わざとらしい足音が近づいてくる。
羅夢はバッと背筋を伸ばし、手に持った雑巾をパシッと棚に叩きつけた。「はい!もうすぐ終わります!」
振り向かなくても、その粘着質な視線がアルバイト制服の襟元から背中を這い下りるのが感じられた。日本に留学して二年、語学学校から死に物狂いで大学院に入ったが、奨学金がほんの少し足りない。その「ほんの少し」のために、彼女は週二十時間もこの忌々しいコンビニに立ち、既婚のハゲ店長に「仕事の指導」と称して身体を触られながら我慢しなければならない。
ポケットの中で携帯が震えた。銀行からの通知だ──次期授業料の最終振込期限:72時間後。
羅夢はその数字を三秒間見つめ、深く息を吸い込んだ。振り向く時には、もうコンビニ顔の完璧なサービススマイルができあがっていた。「店長、そろそろ交代の時間ですが」
「おう、慌てるなって」店長は手を揉みながら、脂ぎった顔を近づけてきた。「羅さん、最近大変だろう?学費あとどれくらい足りない?店長が前借りしてやろうか…」
その手が肩に触れんとする瞬間、羅夢は流れるようにレジカウンターの後ろに滑り込んだ。千回は練習したような動きだ。「大丈夫です!バイト募集サイトで、高時給のテスト案件見つけましたから!」
これは半分ほんとで、半分ウソだ。
ほんとの部分は、確かに「タウンワーク」で法外に時給の高いアルバイトを見つけたことだ。「ソラレアイズ社・歴史没入システムテスター募集。時給2000円。単回実験3時間。秘密保持契約締結必須。」
ウソの部分は、細かくびっしり書かれた十数ページの契約条項を、ろくに読まなかったことだ。彼女の目は「2000円×3時間=6000円」という数字にしか釘付けにならなかった。6000円あれば、四日分の飯代になる。あるいは──学費という底なしの穴に、小石を一粒、投げ込める。
「VRテスト?」店長は眉を上げた。「そんなもの大丈夫か?羅さん、気をつけたほうがいいぞ。店長の方が…」
「はいはい!気をつけます!では失礼します!」
羅夢はほとんど逃げるようにコンビニを飛び出した。東京の晩夏の風がべたつくように肌にまとわりつく。洗いざらしのパーカーを引っ張りながら、駅の方へ小走りになった。
携帯がまた震えた。今度はあのIT企業からの確認メールだ。
【テスト時間:本日22:00-01:00】
【場所:明志大学・第三研究棟B1・Lab-7】
【注意事項:テスト前は十分な睡眠をとり、過食は避けてください。デバイス接続中に異常を感じた場合は、直ちに緊急停止ボタンを押してください。】
その後に、小さな文字で続く。
【免責事項:テスターの個人的な理由によるデバイスの損傷、データ損失については、全額賠償責任を負うものとし、最低賠償金額は5000万円とします。】
羅夢の指は「5000万円」の文字の上で一瞬止まった。
そして彼女は画面を暗くし、携帯をポケットに押し込んだ。
「そんな運悪くないよ」彼女は自分に言い聞かせた。声はからっぽの通りに軽やかに響く。「たった3時間だ。6000円だ。学費だ。」
──そして彼女は、本当に、そんなに運が悪かった。
ラボは思っていたよりこじんまりしていた。真っ白な部屋の中央に、未来的な棺のように見える、高そうな銀色のVRキャプシューが置いてある。対応してくれた研究員は眼鏡をかけた若い男性で、早口でまくしたてた。
「羅さんですね?中にお入りください。デバイスが神経マッピングをスキャンし、没入環境を構築します。今回のテストテーマは『後漢末期から三国時代の文化的景観体験』です。観察者として見聞きしたことを記録し、テスト終了後にアンケートに回答していただければ結構です」
「あの…危なくないですか?」羅夢が冷たいキャプシューに横たわりながら、やっぱり聞いてしまった。
研究員は眼鏡を押し上げ、笑った。「ご安心ください。これは最先端の非侵襲型接続です。安全性は三千回以上テスト済みです。万が一、極端な状況が発生しても、ご自身で意識的にログアウトしていただけます」
彼はキャプシューの内側にある、青く光る小さなボタンを指さした。
「これを押せば、即座に接続が切断されます」
羅夢はそのボタンを見て、少し安心した。
「では、テストを開始します。良い体験を」
キャプシューの蓋がゆっくりと閉じていった。
暗闇。
そして──
「『崑崙-蓬萊』文明交融システムへようこそ。シナリオをロード中…」
中性の電子音が脳内に響く。
「データストリーム安定。時空座標:後漢建安五年、許都郊外。」
目の前にぼんやりとした色の塊が浮かび始める。青灰色の城壁、翻る旌旗、遠くにかすかな馬の蹄の音。
羅夢は思った:なかなか臨場感あるじゃん。
次の瞬間──
「警告:未承認データストリーム侵入を検知。」
「警告:システムプロトコル競合。」
「警告:時空アンカー異常──」
電子音が突然歪み、首を締められた鶏のようになった。
「ジジジ──戦国時代データパッケージの強制接続を検知──プロトコル拒否──強制融合──ジジジ──」
目の前の映像が狂ったように点滅し始めた。青灰色の城壁が崩れ、巨大な天守閣の瓦屋根に変わり、また城壁に戻る。旌旗の上の「曹」の字と「織田」の家紋が交互にちらつく。馬の蹄の音に、火縄銃の轟音が混ざる。
「エラー!エラー!システムコア・オーバーロード──」
あの青い緊急停止ボタンが羅夢の目の前で狂ったように点滅している。
彼女は手を伸ばした──
指が触れる直前。
世界のピクセルがすべて純白のノイズに崩れ去る感覚。
パン!
音ではない。意識の奥底で、もっと根本的な何かが破裂する感覚だ。
羅夢は落下していると感じた。いや、放り出されている。洗濯機の中の靴下のように、時空の渦の中で翻弄されている。
どれくらい経ったか。
一秒かもしれない。一万年かもしれない。
背中が何か硬いものにぶつかった。
「うっ…!」
痛みは現実的だった。薄っぺらいパーカー越しに、冷たい石板が背骨に食い込む。
彼女が目を開けた。
視界はまずぼやけた二重像で、そしてゆっくりと焦点が合う──
彼女は、広くて、様式が奇怪な会議室の真ん中に座っていた。
左側には、深紅の漢代漆塗りの柱。篆書で「魏」と書かれた旗がかかっている。
右側には、金箔の襖絵が描かれた日本の屏風。波濤と龍が描かれている。
そして真正面──
長いテーブルの両端に。
一端に、男が座っていた。深紅の曲裾深衣をまとい、玄色に金糸で刺繍が施された大外套を羽織っている。顔つきは峻厳で、一対の目は人の心を切り裂くかのように鋭い。彼は規則的にテーブルを指で叩き、そのたびに空気が重くなる。
もう一端にも、男が座っていた。南蛮胴具足が冷たい鉄の光を放ち、真紅の陣羽織を肩に掛け、髪は乱雑に束ねられている。口元に含んだ笑みはどこか戯けているようで、手は腰の太刀の柄に置かれ、姿勢はリラックスしているが、引き絞った弓のように張り詰めていた。
二人の視線が空中でぶつかり合う。
パチパチッ、羅夢は火花が散る音まで聞こえるような気がした。
彼女の頭は三秒間、真っ白になった。
そして、狂ったように陽気で、まるでカラフルな弾幕が付いているかのような声が、彼女の脳内──いや、会議室全体にスピーカー全開で炸裂した。
【ジャジャ~ン!システム再起動成功!『文明大乱炖・アルファテスト版』へようこそ!】
【現在のユーザー:羅夢(テスター#998)!】
【環境スキャン:時空融合異常発生中!三国データストリーム(曹魏陣営)と戦国データストリーム(織田家)が強制相互作用位相に入りました!】
【生存率計算中…計算完了:0.01%!】
【友情提示:ねえさん、今から遺書を書いたほうがいいよ!書いても送れないけどね!(ノ◕ヮ◕)ノ:・゜✧】*
羅夢は呆然とその場に座っていた。
赤い袍の男は、テーブルを叩く指を止めた。
鎧の男は眉を上げた。
六本の視線が、一斉に彼女に釘付けになった。
一世紀ほど、時間が凍り付いた。
そして、赤い袍の男が口を開いた。声は低く、疑いを許さない威圧感に満ちている。
「汝、何者ぞ?」
鎧の男もほとんど同時に笑い出した。声は奔放だ。
「此処は、何処ぞ?」
二人の日本語はどこか古風な訛りがあるが、奇跡的に理解できた。
羅夢の頭はまだフリーズしている。しかし、二年間のコンビニバイトで鍛え上げられたある種の本能が、意識より先に身体を動かした。
彼女は「トン!」と立ち上がった。
腰を折った。
深々とお辞儀をしながら、DNAに刻み込まれた、コンビニの最上級接客トーンで、言葉をはっきりと発した。
「いらっしゃいませ────────!!!」
余韻が会議室に響き渡る。
シーン。
赤い袍の男:「?」
鎧の男:「?」
あの狂ったシステム音さえも、言葉に詰まった:【……ジ?】
羅夢は九十度のお辞儀の姿勢を保ったまま、額から鼻筋にかけて冷や汗が伝った。
終わった。
何やってんだ、私。
曹操と織田信長に「いらっしゃいませ」って言ったよ。
死ぬ。絶対死ぬ。
そんな時、彼女がお辞儀をする動作が大きすぎたせいか、ポケットの中の携帯が──「プルルッ」と滑り出し、空中で銀色の放物線を描き、「パチン」と音を立てて、画面を上に向けて、赤い袍の男(曹操)と鎧の男(織田信長)の間の、テーブルのど真ん中に落ちた。
ロック画面が光った。
そこには、彼女の家の橘猫「まんじゅう」の間抜けな顔が、大きく口を開けてあくびをしている写真が映し出され、文字が添えられていた:【今日も頑張ろう!】
曹操はうつむき、画面の猫の顔を見つめた。
織田信長も体をひねり、その光る四角い薄い板を見た。
二人の顔に、初めて「威厳」「覇気」「殺意」の範囲を超えた──
純粋な、当惑した、
「これ何?」
という表情が浮かんだ。
システムの小弥の声が、時宜を得た、非常に娯楽性に富んだ調子で再び響いた。
【時空違禁品を検知しました:『スマートフォン(iPhone 14 Pro)』!】
【状態:バッテリー78%、信号:無、使用可能機能:カメラ、写真、オフラインキャッシュ動画、そして──】
【ユーザー羅夢の個人コレクション:ドラマ『三国志演義』(1994年版)全話、およびアニメ『戦国BASARA』シーズン1!】
【今すぐ再生しますか?】
羅夢はその場に凍りつき、お辞儀の姿勢を保ったまま、分割払い十二回払いがまだ終わっていない自分の携帯が、二人の乱世の梟雄の間に横たわっているのを見つめていた。
頭の中に残っていた考えはただ一つ:
「あの…」
彼女は自分の声が渋く絞り出されるのを聞いた。
「その…携帯、取り戻してもいいですか?」
「まだローンが…」
「残ってるんです…」
静寂。
そして、織田信長が先に笑い声をあげた。冷笑ではなく、何かとても面白いものを見つけたような、遠慮のない大笑いだ。
曹操は笑わなかった。彼はゆっくりと目を上げ、携帯から羅夢の顔へと視線を移した。その鋭い目には、探究の色が溢れんばかりに満ちている。
「ローン?」彼はこの聞き慣れない単語を繰り返し、微妙な口調だった。
システム小弥:【翻訳アシスト起動!『ローンの』≈『日数を分割して貨価を償還する契約』!】
曹操はうなずき、理解したようだった。そして彼は言った。
「よかろう」
「然れど、此の『天機匣』は──」彼は携帯を指さした──「暫くは我等が共に見るものとする」
羅夢は体を起こし、額の汗をぬぐった。
心の中で思った:共に見る?『三国志演義』と『戦国BASARA』、どっちを見るつもりだ?
そして彼女は突然気づいた──
待てよ。
彼らはどうやら。
本当に。
見ようとしている。




