第6話 さすがに無理がある体育祭
何度も、俺は授業中に巻き起こる大騒動を、『彼女は、カリフォルニアで特別なカリキュラムを受けてる』『海外と日本では常識にズレがある』で誤魔化してきた。
いくらなんでも、そろそろ無理があるかな、と思った今日この頃。
7月、モクモクと高く空に広がる雲の下。ついに、光川高校の体育祭がやってきた。いや、やってきてしまった。
各クラスの応援合戦、リレー、騎馬戦。生徒たちの熱気がグラウンドに満ちている。
俺、佐倉 律の完璧な日常は、体育祭という非日常イベントですら、エイリアンによって掻き乱される運命にあった。ああ、胃がキリキリと痛む。
「出来れば、大人しくしててくれよ……」
生徒会として、俺は運営に携わらねばならず、監視は二の次になる。おかげでどうにも落ち着かなかった。
「がんばれー、エリーちゃーん!」
「……フン、転んだりしたら承知しないんだからねっ!」
拓郎の能天気な声援に合わせて、イチカも声を張り上げる。
これから始まるのは、体育祭の名物競技「障害物競走」だ。平均台、ハードル、網くぐり、そして最後には麻袋に入ってジャンプ、という体力とバランス感覚が問われる競技。
そして、そのスタートラインには、天上院エリー・アンの姿があった。
(頼む、頼むから、人間の範疇でやってくれ! 普通に速いだけなら、『さすが帰国子女!』で済むんだ!)
パァンと空砲が青空に向けて、放たれる。
しかし、俺の切実な願いも虚しく、エリー・アンはスタートの号砲が鳴ったあとも、ピタッとその場に静止したままだった。
「え? エリーちゃん、どうしたんだろ?」
「体調不良……じゃないわよね」
他の選手たちが競って走り出す中、エリー・アンだけが微動だにしない。
エリー・アンは、首をゆっくりと動かしながら、コースを観測。琥珀瞳を明滅させながら凝視していた。
「くっ、嫌な予感しかしない!?」
クラスメイトが、「どうした?!」「大丈夫かー!」と心配そうに声を上げる。空砲を鳴らした教師も不審そうに、「お、おい? 天上院、どうした」と声を掛けるが無反応。
ただ、遠くて聞こえないが、エリー・アンが何かを呟いた。
「最適アクションルート算出完了。全行程における消費エネルギー最小化、所要時間最短化、誤差0.001%にて最速経路を確保。――実行しますわ」
直後、エリー・アンは動き出した。
それは、もはや「走る」というより「滑る」ような動きだった。
無駄な上下動が一切なく、まるで地面スレスレを飛んでいるかのように加速し、あっという間に他の選手たちをごぼう抜きにしていく。
「は、はえぇ……」
人間に許された可動範囲ギリギリの歩幅で、距離を稼ぎ、地面に足が着くと同時に強力な蹴りの推力で飛びぬける。倒れ込みそうなほどの前傾。軽やかな動きには、筋肉の硬直が感じられない。
最初の関門、平均台。
皆がバランスを取りながら慎重に渡るそこを、一切の躊躇なく、まるで平地を歩くかのような速度で駆け抜けた。いや、足の裏が吸盤のように吸い付いて滑っているようにすら見える。
「すっげえ! エリーちゃん、バランス感覚やばくね!?」
「うわ……エリーちゃん、後半加速してジャンプした」
拓郎は感嘆し、イチカは絶句。グラウンドがどよめく。
続くハードルゾーン。
他の生徒たちが一つ一つ「よいしょ」と飛び越えていくのに対し、エリー・アンは、地を這うような加速から、ふわり、ふわりと無重力めいた跳躍でクリアしていく。それも、ハードルの高さからほんの数ミリの差で。
風を切るベージュの長い髪が、翼のようだった。
「え、かなりギリギリ攻めてねえか? もしかして、エリーちゃん……」
拓郎が疑わしげにする。と、とうとう気付いてしまったか、拓郎!
「――まさか、陸上経験、者?」
そっちかよ。
「どういうことよ、タクロー」
「ハードル跳びは、あんまり高く飛ぶとフォームが崩れるから。関節を柔らかく使って、最小限の飛び方すんだよ」
拓郎、いい解説だ。でも、お前はもうちょっと疑っていいぞ。
遠く、本部席にいる生徒会長が、信じられないというように目を見開いているのが見えた。ですよね、会長。俺も信じられません。
やる気なくアクビをしていたはずの江西先生まで、珍しく身を乗り出している。
そして、最大の問題。網くぐり。
地面に低く張られたネットの下を、選手たちは汗と土まみれになりながら、匍匐前進で抜けていく、一番時間がかかる難関だ。
エリー・アンは網の前で、こともなげに言った。
「ふむ、この網目の間隔……やはり通過可能ですわね。人体の限界挙動は……」
俺は今日何度目かの、自分の目を疑う光景を見た。
エリー・アンは驚くべき柔軟性で、手足の関節を無視するかのように網の下へ。そのまま、するすると滑らかに動いていく。
「「「えええええええええ!?」」」
俺とイチカの悲鳴が重なった。もはや会場全体が悲鳴と驚愕に包まれている。
「ウソだろ!?」「CGみたい……」「ビックリ人間じゃん」「き、気持ち悪い」
審判の教師も、ポカーンと呆けている。
「ご、ごまかせない……! アレはもう、ごまかしきれない!」
俺は頭を抱えた。陸上選手だろうが、体操選手だろうが、あんな動きは絶対に不可能なんじゃないのか?
拓郎だけは「おおお! エリーちゃん、身体やわっこいなあ! 中国雑技団みてえ」と、やっぱりどこかズレたの声を上げている。
逆に、お前は何を見たら、異常だと思えるんだ?
抜けるまで、わずか数秒。
エリー・アンは、一切の汚れも苦悶の表情も見せずに、涼しい顔で「すんっ」と立ち上がった。
服に土汚れ一つついていないのが、余計に人間離れしている。
(もはや隠す気ねえだろ。馬鹿やろうっ! カリフォルニアで特殊な訓練受けてますって誤魔化せるラインを考えろっ!)
そして、最後の障害、麻袋ジャンプ。
足首まですっぽり麻袋に入り、ぴょんぴょんとゴールを目指す、可愛らしい(そして転倒者続出の)競技だ。
しかし、エリー・アンは、麻袋を両足に入れると。
まるで巨大なバネが仕込まれているかのように、「ビョォォォォンッ!!」と、ありえない飛距離を飛んだ。
一跳びで、コースの3分の1は進んでいる。
「「「「…………え?」」」」
グラウンドにいた全員が、一瞬、時が止まったかのように動きを止め、エリー・アンが描く放物線を見上げていた。
そんなビックリ跳躍を、さらに反動を利用してあと二回繰り返し、あっけなく一位でゴールテープを切った。もちろん、ぶっちぎりで。
し――――ん。
エリーアンは麻袋から顔を出す。汗一つかかず、息も乱さず、完璧な笑顔で。
「よし、計算通りですわ」
数秒の静寂の後、グラウンドは爆発的な歓声とどよめきに包まれた。
「な、なんだ今の!?」「ロケットかよ!」「なんか仕込んでんだろ、あれ」
「もはやチート!」「エリー様ーっ!」
もはや何が何だか分からないが、とにかくすごいものを見た、という熱狂が渦巻いている。
当のエリー・アンは、涼しい顔で麻袋からスッと足を抜き、悠然と歩き去っていく。
俺は、もう何も考えるのをやめた。頭痛がしてきた。