グレー
フローライト第三十八話。
明希はリビングのソファに座っても利成はパソコンに向かっている。明希は何て切り出そうか考えた。
(まずとにかく一樹君を何とかしなきゃ)
「明希、ちょっと待ってて。もう少しで終わるから」
利成が手を動かしながら言った。明希は「いいよ」と答えてから自分のスマホを取り出すと、ラインが来ているのに気が付いた。
<明希さん、無理しないでね>
一樹からだった。
(無理なんかじゃないよ・・・)と明希は思う。翔太のことだって・・・。
でもどうなのだろう・・・翔太と会うこと、一樹君も利成が少し可哀そうだって言ってた・・・。
明希が考えていると、利成がパソコンを閉じて明希の向かい側の一人用のソファに座った。明希が利成の顔を見ると、利成が口を開いた。
「一樹のところはどうだった?」
そう聞かれて明希は利成の顔を見た。利成は少し微笑んでいる。
「どうって?」
「キスぐらいはした?」
「・・・・・・」
明希は利成を見つめながら、やっぱり利成と対等なんて無理なのかもしれないと思った。自分は永遠に利成の手のひらの中のような気がした。
「まあ、それは置いておこうか。まず、夏目のこと中途半端だったよね」と利成が言った。
「利成、翔太の話の前に一樹君のことだけど・・・」
明希がそう切り出しても利成は特に表情を変えない。
「バンドから外すなんてしないで欲しい」
「明希は彼にいて欲しい?」
「いて欲しいとかじゃなくて、外すなんておかしいと思うだけで・・・」
「どうしておかしい?」
「だって私のこととバンドは関係ないでしょ?ちゃんと契約してやってる仕事なんだし・・・」
「そうだね」
「だから利成が私のことで一樹君を外すっておかしいと思う」
「そうか・・・」
利成が何だか少し楽しそうに答えた。
「じゃあ、一樹は外さないでおこうか?」と利成が言ったので、驚いて明希は利成を見た。
(何で?あっさり?)と明希は怪訝な気持ちで利成を見つめた。
「それじゃあ、夏目の話に移ろうか?」
(え?)と思う。じゃあ何で・・・。
「ちょっと待ってよ。何であっさり?」
「あっさりって?」
「一樹君のこと。あっさり外さないでおくって・・・」
「バンドのことと、明希とのことは関係ないから外すのはおかしいって明希が言ったんだよ?」
「そうだけど・・・」
「それならこれで話は終わるだろう?」
「・・・・・・」
「じゃあ、夏目の話に移ろうか」と利成がもう一度言った。
「・・・・・・」
「明希?いい?」
「いいよ」と明希は答えた。けれど利成の気持ちがまったくわからない。
「明希は夏目とこれからも時々お茶したりして会いたいんだよね?」
「・・・・・・」
明希は黙った。何だかわけがわからない。
「明希?」
「・・・うん・・・」とだけ答えた。
「そうか」と今度は考えるように明希の後ろの方の壁を見つめた。
「でも、ダメなら考えるよ」
「考えるって?」
「翔太とはもう会わないか・・・それとも・・・」
(利成と別れるか?・・・いや、別れたいわけじゃない・・・)と思う。
利成の女性関係がどうしても最近自分を苦しめるのだ。それが過去で今はなかったとしても、何かの拍子に現れては、幾度となく明希の気持ちを逆なでし苦しくさせる。
「それとも?」
「それとも・・・」
言いかけてわからなくなった。
「・・・明希の気になってるのは、俺の女性関係でしょ?」
いきなり言われて明希は少し驚いて利成の顔を見た。利成はまっすぐ明希を見つめている。
「だから夏目との理屈が生まれるんだよね?」
「理屈?」
「お茶してるだけ、俺のようなことはしていない。だからそれくらいいいだろう」
利成が言った。明希は視線を自分の手許に移した。利成の言ったことが確かに今回自分が思ったことだった。だけどうつむいたままなら今後もずっとこの思いに苦しめられるのだ。
「・・・そうだよ」と明希は答えて顔を上げて利成を見つめた。
「そうか・・・じゃあ、俺のことを正直に言うよ。それでもいい?」
「それでもとは?」
「本当のことを聞いたら明希は傷つくよ。でも知りたい?」
「・・・・・・」
「それによって本気で離婚しなければならなくなるかもしれない。事実をそのまま言うってそういうことだよ」
「それだけのことをしたってこと?」
「そうだね」
「・・・・・・」
自分が想像しているよりもっとひどいってこと?
「それでもいいなら話すよ」
「何か脅しみたい・・・」
「脅しというより、事実は明希だけじゃなく俺も傷つけるからね」
「え?何で利成のしたことなのに利成が傷つくの?」
「離婚になったら俺も傷つくよ」
「それはそうだけど・・・」
「それに俺は隠していることをそんなに悪いことだと思ってないからね」
「どういう意味?」
「事実はそんなに重要かなと思うからかな。今、俺は明希といたいから隠している。それは明希の言うように「俺のいいように」してるってことだろうけどね」
「・・・・・・」
「後は明希次第だよ」
「・・・話して」
「・・・・・・」
「利成の言う通り”離婚”になるのかもしれないけど、もし、このまま私が我慢していても結局同じ方向に向かっているような気がする」
「そうか・・・いいよ、わかった。どこから話したらいい?」
「まず、現在からかな。今のこと」
「今ね、・・・そのまえに”今”も”過去”もね。明希と付き合いだしてから他の誰かとつきあったことはないよ」
「え?だって・・・」
「誰かと”寝た”だけ。それ以外の人はいない」
「・・・・・・」
「それを踏まえて聞いてね」
「わかった」
「明希が妊娠して最初の子供がダメになった時、その時何回か女性と寝たよ」
「・・・・・・」
「あの前のマンションに呼んでね」
「・・・・・・」
「次はここに来ただろう?あの花音ちゃん。一度寝たよ」
「・・・・・・」
「それからモデルの人かな・・・」
明希は耳を塞いだ。もう聞いていられなかった。目を閉じて頭を抱えて自分の身を守るように丸くなって自分の膝に突っ伏した。
「モデルの人とは数回寝たよ。それが最後。今現在進行中の人はいない」
(もういいよ・・・)
身体が震えた。知らずに自分は利成とセックスしていたのかと思う。
「・・・明希、俺の自分勝手だけどね、明希といたかったから隠してた。お互いそうだろう?明希も俺に夏目のことは隠すつもりだったんだろう?」
「私は違う・・・」
「・・・そうだね、明希は俺と違うね」
「・・・・・・」
「どうするか、これで明希は決めなきゃならなくなったんだよ」
「私だけじゃないでしょ?利成だって」
「俺は明希と別れるつもりはないよ」
「どうして?じゃあ、そういうことしたの?」
「どうしてかか・・・」
「酷い・・・」
「・・・・・・」
しばらくお互い黙っていた。明希は頭の中がパニックになっていくのを感じながら動けなかった。ただ時間だけが流れていくような空間の中で、明希は世界には自分しかいない気がした。すべての人が自分の鏡ならそういうことでしょう?
「明希・・・」と利成が先に口を開いた。
「お互いに割り切れないものはどうしても残ってしまうよね。帳尻を合わせようとするならどこまでも永遠に何かを追いかけなきゃならなくなる。未来の約束もできないし、過去の消去もできない。でもずれそうな時に俺をここに戻してくれてたのは明希なんだ」
明希は利成を見た。利成も明希を見つめていた。
「時々すべてが見通せる気がしてね、ただ終わったことをなぞっているだけな気がするんだよ。不思議なことに子供の頃からね」
「・・・子供の頃から?」
「そう。先が見えるとね、感情もわかないっていうか・・・ただ決まっていることが起きているだけなんだ。感情が湧かないと人生も無味乾燥でね。わかる?俺の絵?決まったものをなぞっただけだったあの小学校の時の絵」
「あの金賞の?」
「そうだよ。わかっただろ?俺がつまらない絵だと言った意味が」
「じゃあ、みんな見えちゃうの?未来が?」
そういうと利成が少し笑った。
「霊能者や超能力者じゃないよ。予知してるっていうのとは違う。・・・そうだな・・・地上から見えないものも、空の上からなら全体が見えるだろ?あんな感じかな」
「でも、それがつまんないの?」
「つまらないよ」
「・・・・・・」
「言い訳に聞こえるかもしれないけど女性も同じでね。性欲を叩きつけるようなセックスばかりしてたよ。でも、明希は最初セックス恐怖症だっただろ?壊れそうな明希を目の前にして・・・ある日ね、ドキドキしてることに気づいたんだよ」
「ドキドキ?」
「変な言い方になるけど、明希がセックスが怖いって言って、夏目に振られたんだって言った時、俺なら治せるって思ったよ。それですごく明希のこと大事に扱っているうちに、ちょっとしたことでドキッとしたりするようになって・・・」
「・・・・・・」
「わかるかな・・・全体がグレーだったところにいくら色を落としてもクリアな色合いにならなかったけれど、明希を大事に扱っているうちに、全体のグレーが少しずつ晴れてきて透明なクリスタルのようになってきたんだ」
「・・・・・・」
「すべては綿密に計算された世界で、仕組みさえ理解すれば後はいいことも悪いこともただ起きていくだけで、コントロールなんてできない。だけど、ドキドキしたときそんな枠組みの中から出て、つまり計算外のことが目の前で起こったんだよ」
「よくわからないけど・・・利成はほとんどのことが理解できて、楽しいんじゃなくてつまらなかったってことだよね?」
「そうだね」
「理解できたら楽しいでしょ?普通」
「わからないことを理解できたら嬉しいよ。でも、すでに知っていることが順番通りに起きるんだとしたら?次のピースも、次のピースも俺の思う通りだよ。だからつまらなかったんだよ。でも、明希に映し出された俺はね、計算外で、でたらめで、笑っちゃうくらいにね」
「笑っちゃうくらい?」
「そう」と言ってから楽しそうに利成が笑顔になった。それから思い出したかのようにちょっと笑った利成を不思議な気持ちで明希は見つめた。
「昨日の枕を投げつけられたのは、ほんとにびっくりしたよ」と利成が笑った。
「あ・・・それは・・・ごめん」と明希は赤面した。
「謝ることはないよ。俺が悪かったんだから。でもね、誰かにあんなふうに叩かれたことなかったからちょっとカッときて・・・」と利成が楽しそうに言ってから続けた。「おまけに一樹に抱きつかれてそれもすごく驚いたよ」
「もう・・・言わないで。恥ずかしいんだから」
「明希は俺に色んな「色」を見せてくれてるんだよ」
「色?」
「そう、色」
「色んな色って・・・」
「そうだな・・・互いの色がそれぞれに反射して・・・映し出されて見える世界が美しいよ」
「でも、私は映し出された色よりすべて取っ払って直接利成に触れたいし、触れて欲しいの」
そういったら利成が驚いた顔をして明希を見つめた。明希は続けた。
「反射した色も綺麗だけど、その色に目を奪われているうちに私は利成を見失っちゃったし、自分も見失っちゃった」と肩をすくめて少し笑顔を作った。
利成が立ち上がって明希のそばまで来て、床に膝を立てて明希の手を両手で握った。
「でも俺はここにいるよ」
「そうだね・・・」
「俺は見失ってないよ、明希のこと」
「うん・・・」
「明希・・・」と利成が明希を抱きしめてきた。明希は利成の腕の中で涙が溢れてきた。人は、今こうして触れられる確かなものよりも、過去にこだわり未来を心配する。
「許せない」という荷物を引きずりながらでも持ち歩く。こんなに邪魔な荷物を人はなかなか手放せないのだ。
「・・・何か今すごく自分が情けないような気分だよ」
「え?」と明希は利成から身体を離して利成を見つめた。
利成がそんなこと言うなんてと思った。
「何で?」
「・・・明希に捨てられそうだから」と言う利成の目尻に少し涙が溜まっていて、泣き笑いみたいな表情を見せた。
── 捨てられる・・・。
「それは私の方のセリフだよ」と明希は利成に笑顔を見せた。
「ん・・・」と利成が口づけてきた。そのままソファの上に押し倒される。明希は何だか利成の女性とのことでショックを受けていたことを忘れて利成を受け止めた。
(わからないけど・・・)
(多分許してないけど・・・)
── でも”許さない”ならどうしたいの?




