第9話 取引先
「ここはね、取引先の中でも一番古い付き合いだから、会社の事情もよくわかってるんだよ」
岩田さんが椅子に深く腰掛け、膨らんだおなかをさする。
「いつからの取引なんですか?」
「さーねぇ。ここが宿場町だった頃には既にあったらしいからねぇ…江戸時代より前かな?」
「そ、そんな昔からあるんですか?」
驚いて、つい大きな声が出る。
「ここはもともと旅籠屋だった。それが卸問屋になり、食事処を経て…今のこの喫茶店は詩織さんのお母さんが始めたんだよ」
——情報量多すぎて腹落ちしません…。
「…梢ラボラトリーって、創業何年なんですか?」
「株式会社としての設立は1890年ごろかな。でも、それ以前から組織自体はずっと存在していて、室町時代くらいまでは遡ると思うぞ」
——ますます腹落ちしません…。
「会社の財務状況なんかは、今度、税理士の弟から説明させるから」
「税理士さん…?」
「あー、税理士担当は俺の弟がやってるんだ。あと、社労士は妹が担当してる」
「士業一家なんですね?」
「まぁ、ここと同じで、古くからの付き合いってやつさ」
なるほど‥‥‥まったく腹落ちしません。詳しく!
「まー、そういう会社なんだよ」
ザックリで終わった!
「で、いったい何を取引してるんですか?」
僕がそう尋ねたタイミングで、詩織さんが部屋に入ってきた。
「はーい、お茶持ってきたよ!」
詩織さんはカップをテーブルに並べ、ポットからお茶を注いでくれる。
三つのカップが揃い、詩織さんは僕の隣にストンと腰を下ろした。
…あれ、このお茶って、そういうことか…。
「おいしいよね、このハーブティー。仕事終わりに飲むとすごーく癒される」
詩織さんが幸せそうに微笑んでカップを口に運ぶ。
——いや、詩織さん、仕事まだ終わってないと思いますが…。
岩田さんもカップを鼻の前に持ってきて、香りを楽しむようにゆっくり息を吸い込む。
「これも梢さんとこから出荷している茶葉だな。いい香りだ」
彼が呟くと、詩織さんもウンウンと頷いて相槌を打つ。
「他にもいろんな食材を仕入れてるんだよねー」
詩織さんはそう言って、岩田さんに笑顔を向ける。
僕はハーブティーでほっこりした顔の二人に訊ねる。
「梢ラボラトリーって、食品を取り扱ってるんですか?」
「食品も、取り扱ってる。他にもいろいろあるけどな。たぶん、君にもいろいろ資格を取ってもらうことになるかもしれないよ」
「資格…ですか?」
「車と自動二輪は持ってたよな、ほかに食品衛生関連とか、電気工事関連とか…、ゆっくりでいいから、できる範囲でやってくれればいい。費用は会社が出すから」
「ハァ…」
「なにー。もう辞めたくなった?」
詩織さんがニマニマした顔で見る
「自分、試験とか本当に苦手で…」
昔から、いくら頑張って勉強しても、試験になると頭の中が真っ白になってしまって、思うようにいかないことが多かった。それで何度も失敗してきた。
物覚えが人一倍悪く、理屈がしっくりこないと頭に入らない性質だから、余計にうまくいかない。
だから、岩田さんファミリーのような士業一家を見ると、どうしても心の中で委縮してしまう自分がいる。
そんな僕の様子に気付いた岩田さんが口を開く。
「気負うことはない。これから働いていく中で、君が会社に必要だと思う資格や免許があれば、それを勉強していけばいい。俺たちも全力でバックアップするよ。何度失敗しても焦らず、自分のペースでやってくれればいいんだ」
優しく微笑む岩田さん。
なんだか、胸に温かいものがこみあげてきて、少し目頭が熱くなる。
——岩田さんの笑顔、ちょっときしょいけど……
それでも、心の底からありがたいと思った。
「とはいっても、梢さんじゃそこら辺はわかんないと思うから、森川君がある程度しっかりしなきゃだけどねー」と詩織さんがため息をついた。
「まあな」と岩田さんが同意する。
「ひとみさん、頭もいいし美人だけど、残念エルフだからねー」
「そうだな、残念エルフだからな」
岩田さんと詩織さんが難しい顔をして深々とうなずき合う。
——残念エルフって…ひどい気もするけど……、同意です。
「あの会社には梢社長だけなんですか?」
僕が尋ねると岩田さんが顔を上げて答える。
「登記上はあと6人いるけど、今は現地社員はいないな」
——現地社員って…。
「去年まで、梅ばあちゃんがいてくれたんだけどね…」
「梅ばあさんな…」
しんみりと二人が遠くを見つめる。
僕はできるだけ悲しそうな表情を作り静かに尋ねる。
「そうですか…、お亡くなりに…」
「いや、全然元気だぞ」
ケロッと答える岩田さん。
「梅ばあちゃんは殺しても死なないね」
詩織さんは肩をすくめ、苦笑しながら首を振った。
コントかよ!!
「梅ばあさんは、この世界がもう嫌だと言って、あっちの世界に行ったきり戻ってこないいんだよ」
「梅ばあちゃん、一度言い出したら聞かないからねー」
はぁーー、と長い溜息をつく二人。
——なんなの?それ!
お読みいただき、ありがとうございます。
面白かった!、続きが読みたい! と思ってくださったら、ブックマークの登録や、広告下にある「☆☆☆☆☆」から★でポイント評価をしていただけると幸いです。
執筆の励みになりますので、何卒よろしくお願いいたします。