第76話 希望の樹
黒い霧が背後から迫る。
その塊は、まるで質量を持つかのように粘り気を帯び、ドロリとした動きでうねりながら近づいてくる。
魔素の暴走。
ドン殿下が呟いていた言葉。
それが今、僕らのすぐ後ろまで押し寄せていた。
周囲にいた魔獣たちも黒塊に飲み込まれ、悲鳴を上げる間もなく消えていく。
——追いつかれる。
僕の肩を掴んで走っていたオフィーが、突然くるりと振り向き、迫る黒い塊に向かって剣を構えた。
刃の周囲に渦巻く風が噴き上がり、周囲の空気を巻き込んでいく。
「トルネードスピア!」
槍の形を成した螺旋の風が黒い霧へと突き刺さる。
そのまま霧を巻き込みながら吹き飛ばしていった。
だが、一瞬押し戻されたかに見えた黒塊は、すぐに形を取り戻し、再び迫ってくる。
「クソッ……!」
次の瞬間、黒い塊が勢いを増し、一気に覆いかぶさってきた。
——飲み込まれる。
あっという間だった。
辺り一面が黒霧に包まれる。
まるで濃密な闇の中を泳ぐように、手足が思うように動かない。
横を見ると、オフィーが膝をついた。続けてドン殿下も苦しげに呻く。
二人は体を震わせ、そのまま地面に倒れ込んだ。
腕や顔には、黒い痣のようなものが広がっていく。
視線の先——ルオさんが俯せに倒れ、ウメさんがこちらへと手を伸ばしていた。
「ダメだ……過剰な魔素が……浸食‥‥‥」
そう呟いた彼女も、力尽きるように倒れ込む。
空気がねっとりと重くなり、肺を焼くような痛みが走る。
視界が揺れ、指先がじんじんと痺れる。
ふと手を見ると、皮膚が黒く染まっていた。
サブリナ……グリー……みんなの顔が脳裏に浮かぶ。
「ウッ……」
咳き込むと、口から塊が吐き出される。鉄の味が広がった。
意識がかすみ、血の上に倒れ込む。
ダメか……。
——ツバサさん……ごめん。助けに行けなく……。
視界が薄れていく……。
意識が遠のく……。
『……諦めないで』
朦朧とする意識の中、風のように声が吹き込んでくる。
どこか懐かしく、それでいて揺るぎない強さを感じさせる声。
直後、左手に熱が灯る。
『……大丈夫。諦めないで』
もう一度、優しく諭すように声が響く。
その瞬間——体中を風が吹き抜けた。
温かく、緑の風。
左手から、柔らかな光がこぼれる。
それは芽吹くように膨らみ、蔦のように伸びていく。
黒い霧が、それを避けるようにジリリと後退していく。
左手から淡い緑の光が迸る。
まるで樹の葉が揺れるように、光が舞い、身体を優しく包み込んでいく。
すると——
体を蝕んでいた黒い魔素が霧散していく。
光が広がり、緑の粒が降り注ぐ。
それは周囲を優しく照らし、仲間たちにも降りそそぐ。
光の粒が触れるたび、黒く蝕まれた痣が薄れ、黒い粒子となって宙に消えていく。
ふと顔を上げる。
そこには、天高くそびえる大樹。
枝葉を広げ、空を覆っていく。
葉がひらひらと舞い落ち、優しい淡い光が辺りを包み込む。
——来てくれた……。
淡く光る緑が、すべてを包み込んでいく。
「……ありがとう」
そう呟いて、僕は意識を手放した。
▽▽▽
【ギーブ視点@トーマの街】
街に戻ったギーブは、さっき見てきた森のことを顔なじみの衛兵に報告した。
最初は馬鹿にしたように笑っていた衛兵たちも、森の方から聞こえ始めた魔獣の咆哮に顔色を変え、慌て出す。
ギーブはそのまま冒険者ギルドに駆け込み、事情を説明する。
その話は、街の領主権限を代行するギルド長まで伝わり、事態の危険性が各所に通達された。
一応これでも、トーマの街では名の知れた冒険者だ。彼の言葉を疑う者はいなかった。
そして、街は急速に動き出した。
街に駐屯する兵士たちと、かき集められた冒険者たちが、迫りくる魔獣を迎え撃つ。
しかし、倒しても倒しても、押し寄せる魔獣の数に押され、防衛ラインはじりじりと後退していく。
辺りは次第に暗くなり、視界も利かなくなってきた。
最前線で討伐に当たるギーブも、何体の魔獣を斬り伏せたのか、それすら分からなくなっていた。
魔獣の群れは、松明が灯る石壁の最終防衛ラインにまで迫り、押し寄せる勢いは衰えることなく、なおも増していく。
今は、石壁をよじ登ろうとする魔獣たちを突き落とすのが精いっぱいだった。
ふと、ルオとソラの顔が脳裏をよぎる。
この四年間、苦楽を共にした仲間たち。
決して楽しいことばかりではなかったが、気の合う仲間との冒険は悪くなかった。
森に残してきたことを、今になって後悔する。
……いや、たとえ一緒に戻っていたとしても、この状況ではじり貧だっただろう。
やがて、この街も落ちる。
それでも、今、一緒に戦えないことが、ひどく悔やまれた。
そんなことを思いながら、最後の力を振り絞り、剣を振るう。
周囲の兵士や冒険者たちも、すでに剣を振る気力すら尽きかけていた。
ギーブの剣の刃は欠け、もはやただの鉄の棒にすぎなくなっていた。
その時——。
遠く森の奥から、赤い火柱が立ち昇る。
そして、それに続くように、耳をつんざくほどの甲高い絶叫が響き渡った。
生き物のものとは思えない、背筋が凍るような絶叫。
同時に、一瞬——森全体が膨らんだように感じた。
森の輪郭がぶれる。
そこから、黒い塊が噴き上がり、濁流のように溢れ出す。
それは、夜の闇とは異なる、ヌメヌメと蠢き、月明かりに鈍く照り返る不気味な塊
まるで巨大な獣が息を吹き返したかのように、夜空を背景に微かに蠢きながら、その形を変えていく。
ヌルリとしたその黒い塊は、まるで生き物のようにズリズリと蠢きながら広がっていった。
それは、魔獣をも巻き込みながら、その速度を緩めることなく進む。
魔獣が黒い霧に触れた瞬間——悲鳴を上げる間もなく、消えた。
次々と魔獣が飲まれ、それでも黒い霧は止まらずこちらに向かってくる。
気づけば、すでに街のすぐ近くまで迫り、さらに町全体をも包み込んでいった。
その瞬間、まるで泥の中に沈むような感覚に襲われ、身体が震え、息が詰まる。
周囲の仲間たちも、次々と倒れていく。
意識が剥がれ落ち、膝をついた。
まるで身体の芯が溶けるように、力が抜けていく。
黒い霧に霞む森の奥を見つめながら、かすれた声で呟く。
肺に冷たい泥を流し込まれたように、息が苦しい。
「……ルオ、ソラ……」
視界が暗転する——。
——次の瞬間。
暗闇に、緑の光が閃いた。
それは最初、森の奥から 一筋の光となって 天へと昇り、夜空を切り裂いた。
次第に、光は波紋のように広がっていく。
濁流のように街へ押し寄せていた黒い霧が、光に触れた途端に 焼かれるように 弾け、消えていく。
その光景は——まるで 大樹が枝葉を広げるように、夜空を覆っていく。
暖かな風が吹き抜けた。
それとともに——
倒れた人々の身体に、緑の光の粒が降り注ぐ。
それは雨のように、優しく、温かかった。
気づけば、街全体が柔らかな光に包まれていた。
冷え切った指先に熱が戻る。
鉛のように重かった身体が、少しずつ軽くなっていく。
隣で倒れていた男が、ゆっくりと空を見上げる。
やがて、膝に力を込め ゆっくりと立ち上がった。
周囲の人々も、皆が顔を上げていく。
そしてまた一人、一人と——。
「……奇跡だ」
誰かが、静かに呟いた。
皆が緑に輝く夜空を見上げ、手をかざす。
頬にこぼれるのは、温かな微笑み。
街に降り注ぐ緑の光は、希望の雨となり、すべてを包み込んでいく。
街に、命が、息を吹き返していく——。
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