第56話 モヤモヤした話
今日は朝から雨が降っていた。
僕はレインコートを着て、大樹の部屋で手早く採取を済ませる。
ここはガラスのドームで外界と隔てられているが、なぜか霧雨のような細かい雨が降り続けている。
ふと、大樹に手を伸ばし、そっと幹に触れた。
手のひらを当て、目を閉じる。
すると、木の奥深くを水が巡っているのが感じられた。
初めてこの大樹に触れたとき——
全身を包み込む圧倒的な生命の鼓動と、すべてを受け入れてくれるような安堵感に浸り、意識が溶けていきそうになったのを覚えている。
だけど、今日は違った。
水の流れが、どこか不規則で、途切れがちだ。
まるで、大樹そのものが、この世界から遠ざかり、切り離されていくような——
置き去りにされていくような、そんな寂しさが胸に広がる。
触れている僕まで、涙がこぼれそうになった。
——なんだろう、この感覚。
その時、後ろから呼ぶ声がした。
「森川さん、おはようございます」
振り返ると、そこにはオフィーとツバサさんが立っていた。
オフィーはいつものスウェット姿。
一方のツバサさんは、魔女っ娘コスチュームに……なんと! とんがり帽子までかぶっている!
僕がその帽子をじっと見つめると、ツバサさんは顔を真っ赤にして帽子のツバを掴み、目を隠すようにする。
「だって、森川さんが……恰好から入ったほうがいいって……」
慌てた僕はすぐにフォローした。
「いやいや、すごく似合ってますよ!」
実際、可愛い。
しかし、ツバサさんは湯気が出そうなほど顔を赤らめ、震えていた。
「ツバサは器用だな! この帽子も自作らしいぞ」
——自分で作ったのか?
「魔術の上達にはイメージが大切だから、まんざら悪いアイディアじゃない」
オフィーが真面目な顔で言う。
「で、森川。今日は私とツバサだけでダンジョンに行く。今のままだと二人の実力差がありすぎて訓練にならないからな。今日はツバサを中心に鍛える」
そう言うと、僕が返事をする間もなく、オフィーはダンジョンへ向かった。
ツバサさんはぺこりと頭を下げ、その後を追う。
僕はただ、二人を見送った。
その後、手早くデリバリーを済ませ、事務所に戻る。
梢社長とサブリナがパソコンに向かい、キーボードをカチャカチャと叩いていた。
僕もサブリナの隣に座り、業務処理に取り掛かる。
梢社長は、キーボードを打つ合間に時折「アー」とか「ウッ」と小さく呻いている。
——ありゃ、ゲームやってんな。
その後も刻々と時間が過ぎ、室内にはキーボードの音と、外からの雨音だけが響いていた。
なんだか、こんな平和な感じも久しぶりだな、と僕は思っていた——そのとき、サブリナが僕の袖をそっと引っ張った。
「ん?」
サブリナは無言でモニターを指さす。
そこには英語の報告書が映っていた。
「ナニコレ?」
「ヘルハウンドの内部文書だ」
「どうやって入手したの?」
「いろいろやって、入手したんだ」
——それ、ハッキング! いや、クラッキング!
「そんな事より内容がさー……もしかして英語読めない?」
「イエース、アイ キャンノット リード イングリッシュ」
僕の返事に、サブリナはわざとらしく両手を挙げ、ヤレヤレと首を振る。
「ざっとまとめると、まず前提として、大樹は今年中に花を咲かせるらしい」
確かに。神戸氏も似たようなことを言っていた。
「それと、大樹を巡る敵対勢力については、日本政府をはじめ、各国軍部の諜報機関、梢を知る民間団体や企業、さらに宗教団体、異世界勢力、地球外種族なんかも挙げられてる」
フムフム……え?
「ちょ、待って。民間企業とか宗教団体はともかく、異世界勢力? それに地球外種族って何?」
「わかんないよ! ただそう書いてあるだけだもん。まあ、あくまで想定される可能性として挙げてるだけかもね」
異世界人がいるくらいだから、宇宙人がいてもおかしくはない。……いやいや、やっぱおかしいって。
「そもそも、異世界勢力って何? この会社のこと?」
「それなー。注釈の特記を見る限り、この会社自体が大樹を脅かす存在のような感じで記述されてんだよねー。まるで、大樹を異世界人が拉致監禁してるみたいな感じ?」
——視点を変えれば、そう見えなくもないのか……。
「つまり、大樹から見れば、この会社も敵対勢力……ってこと?」
僕が訊ねると、サブリナはウーンと伸びをしながら、低い声で唸るだけだった。
「まあさー、大樹の存在自体が謎だからねー。この文書に書かれてることも、半分も理解できないよ」
そう言いながら、サブリナは引き出しを開けた。
中にはぎっしりとお菓子の袋が詰まっていた。彼女はクッキーを取り出し、勢いよく口に放り込む。
「ちょっと気になるのはさー、この文書の中で、ここの大樹が『第3号』って書かれてること」
「……第3号?」
「ってことは、他にもあるってことじゃん?」
僕は何も返せず、ただ彼女の様子を見つめる。
「まあ、もうちょっと調べてみるけどねー」
目頭を揉みながらそう呟くと、サブリナは再びモニターに視線を向け、キーを叩き始めた。
外からの雨音が、いつもより大きく部屋に響いていた。
なぜだか、見慣れてきたはずの事務所の全てが、ひどくよそよそしく感じられた。
僕も、なんだかモヤモヤした気分で、ただひたすら伝票の処理を続ける。
そんな僕らの背後から、不意に声がかかった。
「難しい顔して、二人でなーにしてんのー?」
振り返ると、そこには梢社長が立っていた。
「ねぇ、もうとっくにお昼過ぎてるよー」
彼はサブリナが操作しているモニターを覗き込みながら言う。
「でさ、オフィーとツバサちゃんがまだ戻ってないんだけど、いつ頃ダンジョンに入ったか覚えてる?」
そう。いつもなら、お昼前にはダンジョンから戻るはずだ。
改めて時計を見ると、二人と話してからもう3時間が経っている。
——魔法の練習で、時間がかかってるのかな?
ツバサさんは、魔法の発動こそできるものの、それを放出して攻撃するには至っていなかった。だから、深く潜る必要はないはずだ。
妙な胸騒ぎがした。
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