第5話 初出社します
会社を辞めてからは、朝起きる時間がすっかり遅くなり、昼近くまで寝ていることが多かった。
でも、今日は久しぶりに“会社”に行かなくちゃいけない。昨日は早めに寝たおかげか、体調は万全だ。
気分転換を兼ねて、会社まで歩いて行くことにした。
アパートを出て30分ほど歩くと、白く輝く建物が見えてきた。
田圃の中にぽつんと佇むその建物は、朝日を受けて淡く光り、まるで別世界のような幻想的な光景だ。
この街に住んで数年になるのに、今まで気づかなかったのが不思議なくらいだ。
すぐ入るのも気が引けて、ぶらぶらと周囲を歩いていると、門の近くで花に水をやる梢社長の姿が目に入った。
ただの水やりなのに、その仕草が一幅の絵のようで、思わず見とれてしまう。
「あら、おはようございます。来てくれましたね」
こちらに気づいた梢社長が、振り向いて柔らかく微笑む。その笑顔に一瞬、ドキッとする。
「あっ、おはようございます」
慌てて挨拶を返す僕に、彼女は小首をかしげる。
「お散歩ですか? さっきから会社の周りをぐるぐる歩いてましたけど」
——あ、バレてた……。
「えっと……水やり、手伝いましょうか?」
「大丈夫でーす。もう終わりますから!」
彼女はジョウロを片付けると、手を軽くパタパタと払う。その仕草すら絵になるのが、また憎らしい。
「さ、入りましょ!」
そう言って彼女は、扉を開けスタスタと中へ入っていった。
——この感じ、昨日と同じ流れだね。
急いで後を追い、事務所に足を踏み入れる。すると彼女は、「お茶を入れますね」と言い残し、またどこかへ消えてしまった。
——うん、デジャブ。
数分後、トレーにカップを二つ載せて戻ってきた彼女は、「座って座って」と奥のソファーを勧める。
向かい合って座ると、彼女は一口お茶を飲んでカップを置き、微笑みながら話しかけてきた。
「早いですねー。まだ8時半ですよ?」
「つい気になって早く来てしまって……」
「朝ごはん、ちゃんと食べましたか?」
「いえ、朝はいつも食べないんで」
正直、用意するのが面倒くさくて抜いちゃうんです。
「ダメですよー! 朝はちゃんと食べないと。この世界の人は一日三食とるんでしょ?」
——出た! 『この世界』発言。
「私の世界でも一日二食ですが、朝はしっかりとりますよ!」
——今度は『私の世界』発言。
「とにかく、朝はちゃんと食べてくださいね! 朝ごはんを食べるための遅刻なら、大丈夫ですから!」
にっこり微笑む梢社長。その無邪気さに少し気圧されつつ、僕は苦笑いを返した。
——さすが!『世界』が違うと、価値観も変わるんだな……
それとも、エルフの価値観かな?
そんなことを考えている間も、梢社長は楽しそうにお茶をすする。
「それで、今日はガンちゃんが来てくれるから、少しお話してもらいますね」
ガンちゃん! どうか常識人でありますように。
「そろそろ来る頃なんだけどなー」と梢さんが言ったその時、事務所のドアがノックされた。
彼女は「あっ!来たよ!」と声を上げて席を立ち、ドアへ向かう。その様子につられて、僕もソファーから立ち上がり、後を追った。
梢社長がドアを開けると、そこには恰幅の良いスーツ姿の男性が立っていた。
髪はモジャモジャで無造作。もみあげから続く髭が顔全体を覆い、どこか野生的な印象を受ける。
まるでライオン——そんな表現がぴったりの中年男性だ。40代くらいだろうか。がっしりとした体格もあいまって、ただ立っているだけで圧を感じる。
「おはようございます」
低く響く声とともに男性は部屋へ足早に入ると、僕をちらりと一瞥し、「この青年か?」と確認するように言った。
——ガンちゃん……!? 「ガン」は分かるけど、どう見ても「ちゃん」付けは間違ってるよね!
「そうそう。こちらが森川裕一くん。よろしくね」
梢社長の言葉に促され、少し緊張しながら「よろしくお願いします」と頭を下げた。
男は「フーン」と鼻を鳴らし、僕を頭からつま先までゆっくりと眺め回した。
まるで商品を品定めするような視線に、少し居心地が悪い。
「応接間のソファーに座ってて! 今お茶を入れるから」
そう言うと梢社長はまたどこかへ消えてしまった。
——お茶を入れる頻度、高くない?
一人残された僕とガンちゃんさん、いや、ガンさん。
彼は勝った知ったる風に、パーテーションで仕切られた事務所奥のスペースに向かった。
ちなみに、ソファーがあったところが『応接間』らしい。
彼の後を追うと、ガンさんはすでにソファに腰かけ、大きなカバンから古びたノートパソコンを取り出していた。その動作は無駄がなく、手慣れた様子だ。
「失礼します……」
声をかけて僕もソファに座る。しばらくして、梢さんがポットとカップを手に戻ってきた。
「お待たせー。お茶どうぞ!」
梢社長はにっこり微笑みながらテーブルにポットとカップを並べ、静かにお茶を注ぐ。
そんな社長と対照的に、ガンさんはパソコン画面をじっと睨み、音を立ててキーボードを叩き始めた。
「そういえば、まだちゃんと紹介してなかったね。この人がガンちゃんで、会社の手続き全般を任せているの」
梢社長はカップにお茶を注ぎながら、彼を紹介した。
「でね、森川君の入社手続きをお願いしようと思って——」
彼女が言いかけたところで、ガンさんが低い声で遮った。
「梢さん、少し彼と話をさせてもらえないかな」
彼の視線がじろりと向けられる。
「森川君だったね。私は弁護士の岩田信夫。会社の手続き全般を担当しています」
その声には威圧感があり、思わず委縮してしまう。
そんな僕の様子を見て、梢社長は溜息をつき、「言い方が怖いんだよー、ガンちゃんは」と僕に向き直り、にっこり笑う。
「はーい。わが社の顧問弁護士の岩田さんでーす☆
通称『岩ちゃん』!
36歳、独身!
彼女はいるけど、ビビッてプロポーズできましぇーん!」
梢社長が岩田さんに向けて両手をヒラヒラ振りながら紹介する。
「・・・・・・」
どー反応していいものか……梢社長、責任取ってほしい。
岩田さんは深くため息をつき、がっくりと肩を落とす。
「社長、紹介ありがとう。ただ、少し個人情報の取り扱いについて考えてほしいけどね……」
絶対怒ってます‥‥‥。声が微妙に震えてるもん。
岩田さんは一度大きく咳払いをし、僕に向き直った。
「さて、昨日突然、梢社長から新入社員を採用したと連絡を受けた。正直、困惑しているんだが、君がその入社希望者ということかな?」
希望かと聞かれると……、僕も困惑してます。
梢社長の方を見ると、彼女は満面の笑みでコクコク頷いている。
ハァ‥‥‥、分かりました。
「はい。僕が入社希望の森川です」
僕はまた、あっさりと流されてしまった。
お読み頂きありがとうございます!
是非!ブクマークや、★でご評価いただければ嬉しいです!
よろしくお願いいたします。
執筆の励みになりますので、何卒よろしくお願いいたします。