第21話 発動しないで下さい
神戸と名乗った男は、ダークネイビーの細身のスーツをまとい、田園風景を背にしてもなお、英国紳士のような洗練された佇まいで立っていた。
僕よりも線は細いのに背が高い。180センチは優に超えているだろう。
……それが妙に癪に障る。
その男が、僕の目の前に立ち、慣れた仕草で手を差し出してくる。
彼との距離はせいぜい1メートルといったところだ。
握手を…求められているのか?
この年齢になるまで、握手を交わす挨拶などしたことがない。
どう反応すべきか迷い、戸惑いながら、つい会社の方を振り返る。
会社までの距離は1キロ以上。全力で走っても、簡単に追いつかれるだろう。
この一本道に身を隠せる場所もない。
——逃げるか?
会社の近くまで行き、大声を上げれば梢社長が気付いてくれるかもしれない。
彼女なら、きっと助けてくれるだろう。
けれど、その考えを振り払うように、僕は拳をぎゅっと握る。
——違う。逃げるな。
入社初日とはいえ、僕はもう梢ラボラトリーの社員だ。
たとえ愚直でも、今できることをやるべきだ。
「僕に何か御用ですか?」
僕は男の目を真っ直ぐに見据えた。
神戸は一瞬だけ目を細め、すぐに、くしゃりと表情を崩して微笑んだ。
「そんなに警戒しないでください。就職のお祝いを言いたかっただけなんですよ」
手を引っ込め、代わりに胸元に添えて軽く頭を下げる。
一つひとつの仕草が無駄なく、洗練されすぎていて、正直……なんか腹が立つ。
「どこのどなたか存じませんが、ありがとうございます。それでは失礼します」
僕は言い放ち、踵を返して歩き出すと、彼も当然のように横に並んで歩き始めた。
「なるほど、なかなか肝の据わった方のようですね。将来有望、梢ラボラトリーの未来も安泰でしょう」
僕は彼に目線を送り軽く頭を下げると、できる限り慇懃無礼にこたえる。
「ありがとうございます。今後とも、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
その言葉に、彼はふっと足を止めたかと思うと、一歩だけ僕の前に出る。
そして、身を屈めて僕の身長に合わせ、口角をわずかに上げてニヒルに微笑んだ。
「私は、敵ではありませんよ」
笑みを崩さないまま、彼は低い声で続ける。
「……いや、味方でもないかもしれませんけどね」
僕は立ち止まり、目の前の男を見据えた。
「あなた…誰ですか?」
彼は肩をすくめると、ポケットから名刺を一枚取り出し差し出してきた。
「内閣継案特務管理‥‥なんです? これ」
名刺に目を落としながら訊くと、彼は声を上げて笑った。
「まあ、肩書は飾りです。政府関係者ということだけ、覚えておいてくれれば」
そう言って、僕の手から名刺をひょいと奪い返す。
「名刺は自腹で作ってるのでね。必要ないでしょ?」
——身なりの割には妙にセコい……。
「セコイ…と思いましたか?」
——……バレてる!? さてはエルフか。
「形に残るものは苦手なんです。女性以外には名刺も渡さない主義でして」
一人でクククと笑う姿に、僕はただ無言で視線を外した。
……なにが面白い?
「それで、少しお話しする時間をいただけますか?」
「僕について何かご存じのようですが……話せることは何もありませんよ」
「構いませんよ。むしろ、あなたにお伝えしたいことがあるんです」
——僕に?
「ご存じですか? あなたが入った会社『梢ラボラトリー』がどんな会社なのか。そして、その裏に潜む……恐ろしい実情を」
恐ろしい実情…?。
「私はね、あなたにもそれを知ってほしいのです」
その言葉に、僕は思わず息を呑んだ。
「怖がらせてしまったかもしれません。ですが、私がこの国を守りたいと思っているのは本当です」
彼の視線はまっすぐで、嘘を言っているようには見えなかった。
気がつけば、僕は無言で頷いていた。
「では、こちらへ」
そう言って神戸氏は前を歩き出す。
しばらく歩くと、黒いSUVが道の脇に停まっているのが見えた。
彼は車の脇で立ち止まり、運転席のドアを開けながら振り返る。
「どうぞ、お乗りください」
僕は足を止め、彼と車を交互に見やった。
その一瞬のためらいを察したのか、彼は柔らかく笑みを浮かべた。
「大丈夫です。あなたを連れ去ったり、危害を加えたりなんて恐ろしいことはしませんよ」
そう言いながら、彼の視線が僕の左手首に注がれた。
視線につられて、自分の左手首を見る。
手首には、梢社長から渡されたブレスレットがある。
一瞬、ブレスレットが微かに光を放ち脈動した気がした。
反射的に僕は右手でそのブレスレットを握った。
その様子を見た彼は、あげおどけたように両手を挙げる。
「お願いですから、それ、ここでそれを発動しないでくださいね。私も命が惜しいので」
彼はそう言ってニッと微笑んだ。
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