第196話 世界のはじまりかた
──風が、やんだ。
空に漂っていた最後の花びらが、そっと誰かの肩に触れて、静かに溶けた。
街は、いつもと変わらない夜に戻っていた。
電灯のちらつき、車の走行音、遠くで鳴るチャイムの音──
けれど、誰もが少しだけ、何かを思い出そうとしていた。
ほんのわずかな、温かさ。
ありえたかもしれない夢の輪郭。
名前をつけるには、幼すぎる記憶の断片。
そして──
「……また、世界が、ちゃんと動き出したみたいだね」
誰かの声が、遠くの空から届いた気がした。
それは風でも音でもなく……確かに、胸の奥でやさしく響いていた。
▽▽▽
あれから、三日。
結局、詩織さんが計画していたクリスマスパーティは中止になった。
まぁ、そりゃそうだ。あんなことがあった直後に「ケーキどーん☆」とかやってたら、逆に怖い。
梢ラボラトリーの社屋は、見事に──というか、壮絶に崩壊。
残されたのは、世界樹だけ。
ああ、これはもう、会社もしばらく休業だろうな……と、僕は思っていた。
──しかし、そう思っていたのは、ほんの束の間だけだった。
「……で、なんで僕、資材の山に埋もれてるの?」
今、僕たちは社屋跡地に立っている。
周囲はブルーシートに囲まれ、絶賛“再建中”。
次々とトラックが資材を運び込み、気を抜くとすぐに埋もれそうだ。
「う〜ん。いっそのこと、全面ガラス張りもオシャレかと思うんだよね〜」
梢社長が、つなぎ姿にヘルメットという格好で、ノリノリで言った。
建築現場に、最も似合わない人だよ。この人。
「ガラス張りなんて、夏は地獄ですよ? あと、外から丸見えですけど」
「チエッ。じゃあ、やっぱりこの外装パネルで囲みますか〜」
「今、舌打ちしましたよね?」
「してないってば〜」
「いや、したでしょ。今の“チエッ”、完全に舌から出てましたよね」
「……しつこい男は嫌われるよ?」
そんな軽口を交わしながら、梢社長は「ほいよっ」と手を振った。
次の瞬間、地面の一部がぐにゃりと凹み、そこにパネル付きの脚部がにゅっと生える。
しかも、それが勝手に土にめり込み、ぐぐぐ……っと自動で固定されていく。
「ふ〜。やれやれ、ね♪」
「これ、まだ100枚ぐらいありますけど? やれそうですか?」
「大丈夫大丈夫! なんとかなる〜♪」
梢社長は、謎の歌を口ずさみながら作業を再開。
“なんとかなる〜”の歌は、どうやら彼女の自作らしい。しかも二番まである。
鼻歌を口ずさみ、腕をブンブン振って踊るようにパネルを召喚するその姿は、もはや建築というより、儀式の域だった。
……そして僕は、資材にまみれながら、思う。
──これ、ただの「再建」じゃない。
僕たちは今、世界をもう一度──動かし始めてるんだ。
そう、これは"再始動"なんだ。
世界は、再び動き出した。
あのとき。
あのイブの夜。
僕らは世界を救ったわけじゃない。何かを解決したわけでもない。
それでも──自分の手で、確かに何かを、強く、つかんだ。
あの時の想いだけは、この胸の中に、ちゃんと残っている。
目の前の「日常」は壊れた。
けれど、僕たちはそれを──もう一度、作り直している。
誰かに決められた世界じゃなく、自分たちで選び、決める世界を。
それが、なんとなく……ちょっとだけ、誇らしかった。
▽▽▽
「どーですかー、着々と進んでますかー。お、壁ができましたねー」
現場に現れたのは神戸氏だ。スーツにヘルメットという奇妙な格好で、なぜか上機嫌。
今ある資材のほとんどは継案局の予算で用意されている。
壁は特殊鋼材、ガラスは最強の防弾ガラス──
神戸氏いわく、「ちょっとやそっとで壊れてもらっては困りますからねー」とのこと。
まあ、内部構造と社屋強度を把握しておきたいってのが本音だろうけど。
それについて梢社長は、
「タダならいいじゃん! それに、継案局も結構壊したんだから、弁償するのは当たり前だよー」
……と、言っていた。たくましい。
「あれ? ほかの皆さんは?」
神戸氏があたりをきょろきょろと見回す。
「今日は来てないですねー。年末の打ち上げ準備で忙しいらしいですよー」
「ほう、それは初耳ですね。どちらでやられるんですか?」
「あー、それはですねー……」
──まずい。この人に言ったら、絶対ついてくる!
「ロイマール皇国の風光明媚な湖のほとりでやるんだよー♪」
梢社長がひょこひょこ近づき、あっさりネタバレ。
「梢社長!」
「そ、それってまさか、異世界の?」
神戸氏の目がキラーンと光った。
「そだよー。行きたい?」
「もちろんです! え! 行ってもいいんですきゃー?」
いや、神戸さん、噛んでますよ……完全に興奮してる。
「どうしよっかなー。人増えると移動が大変だしねー。前は車あったけど壊れちゃったしねー」
梢社長の口調に、あからさまなおねだりの気配が漂う。
「よければ、こちらで車用意しますよ!」
「ダメなのよー、異世界行くには弊社の所有物じゃないと転移できないのよねー」
──この人……完全に誘導してる。
「わかりました! それくらいなら、わたくしの個人資産から用意させていただきます!!」
「ほんとー! 2台はほしいかなー」
「任せてください! もう1台は矢吹にも出させますから!」
勝手に決めてる……こいつら悪魔だ。
――矢吹さん、ごめん。
「しかし社長、車でダンジョンは無理でしょ?」
以前は、バイクを手で押して行ったのだから、車が通れるはずがない。
「ダイジョーブ! これを機に拡張したんだー」
こっちこっち! と世界樹のわきへと歩いて行く。
"なんとかなる~"の2番を口ずさみながら案内されたのは、世界樹わきのダンジョン入り口。
以前は小屋で囲まれていたが、先日のスタンピードで吹き飛び、今は黒いシートで覆われている。
「どりゃー」
掛け声と共にシートをめくると──地面に描かれた巨大な魔法陣が現れた。
「乗って乗って」
梢社長の言う通り中に入ると、一瞬にしてダンジョンへ転移。
その先には、相変わらずスウェット姿のオフィーが、スコップ片手にこちらを振り向いていた。
「何してんすか?」
「整備だよ整備! 拡張してんだよ」
前回のスタンピードで半壊したルートを整備しているらしい。
「ドラゴンが荒らしまわったからな、でっかくなっちまった」
確かに、これなら車も通れる。
神戸氏は目をキラキラさせ、「すごいスゴイ」と連呼し、ついには「お手伝いさせて下さい!」と上着を脱いで、オフィーと手押し車で土を運び始めた。
ついこの前まで、継案局は敵対組織だったはずなのに。
今や、関連会社みたいなノリだ。
──ま、いろいろ変わり始めてるんだな。
そう思うと、なんだか感慨深くなってしまう。
かくいう僕自身、ほんの少し前まで、何者でもなかった。
流されるように社会に出て、空気のように扱われて、夢なんてとうに捨てていた。
それが今、異世界への道を前に、社長の「なんとかなる〜♪」を背中で聴きながら働いている。
まったく、どうしてこうなったんだろう……
……いや、違うな。
どうしてでもいい。
ここにいて、笑っていられるなら。
守りたいと思える誰かがいて、帰る場所があるなら。
世界が止まっても、誰かがまた動かす。
その力が、自分の中にもほんの少しだけ、あるのだと──
今は、そう思える。