第194話 イブの夜に花開く
大樹のまわりには、白く輝く花が咲き誇っていた。
それは、世界すべてを包みこむような、やさしい光だった。
天高くそびえる世界樹。枝は四方に広がり、透き通るような白い花が次々と咲いていく。
淡い桜色の花弁が風に揺れ、光を反射して、空気そのものを染めていた。
「まるで星屑が咲いているみたいだ……」
ひらり、ひらり。
花びらが宙を舞い、重力を忘れたかのように空へ昇っていく。それはまるで、祈りのようで、願いのようだった。
一枚の花びらが、僕の頬に触れる。
あたたかくて、やさしかった。まるで「おかえり」と言ってくれているみたいに。
「……すご…い」
誰かの声が、風に溶けて消えていった。もう言葉はいらない。胸がいっぱいで、息が詰まる。
この花、この景色──それは命の記憶。涙も、言葉も、想いも、全部がこの世界樹に刻まれていた。
舞い降りた花びらは、静かに光となって、土へと溶ける。
これは"散る"んじゃない。命の循環だ。再生だ。
「局長! これ見てください!」
矢吹さんが、神戸氏にスマホを差し出す。
「……直ってる……」
「あの花びらが舞い降りた瞬間に、再起動したんです!」
そのとき、周囲にサーチライトの明かりが灯り始める。
さっきまで、ユグドラシルAIの制御で消えていた照明が、ひとつずつ復旧していく。
「モリッチ……これって……」
サブリナが、震える声でつぶやいた。
「ああ。大樹が……この世界をユグドラシルの支配から、解放してくれてるんだ。きっと、大樹から僕らへの“願い”だ。──自由であれ、ってね」
目を閉じると、あの感触がよみがえる。
大樹に触れたときの、あのすべてを受け入れる感覚──
「ありのままでいい。そのままで、思うがままに」
あの想い。あの肯定。
僕を呼び戻してくれた仲間たち。命を繋いでくれた人たち。
その想いがなければ、この花も景色も生まれなかった。
──そのときだった。
夜空に、無数の光点が浮かぶ。
ドローンの群れだ。静かに、確実に、大樹へと迫ってくる。
そして──放たれた、“神格プロトコル・ノウス”。
無数の光の矢が、空を裂いて降り注いだ。
標的は、大樹だけじゃない。この場所すべてだ。
「グリー! 頼む!」
『うっぜーな! 死んだと思ったら生き返りやがって!』
相変わらず毒舌。でも──防御障壁は、完璧だった。
『もう勝手に死ぬんじゃねーぞ!』
ちらりと振り向いたグリーの頬は赤く染まり、目には涙が滲んでいた。
……心配かけたな、グリー。ありがとな。
グリーは気合を入れ、障壁をさらに展開する。
だが──
『ダメだ! 範囲が広すぎる!』
──すべては防ぎきれない。
数本の光の矢が、障壁をすり抜けて大樹に突き刺さる。
バチィッ!
黒い亀裂が走り、白い花がひとつ、またひとつと黒く染まっていく。
「やばいぞ! また乗っ取られる!」
大樹卿が叫び、世界樹が軋みを上げた。
花びらが枯れていく。芽吹いた希望が、また闇に呑まれていく。
「まったく、しつこいと嫌われるんだぞー! ……もう嫌いだけどな!」
サブリナがヘッドギアに手をかける。
でも──僕は、その手を止めた。
「モリッチ!?」
不思議と、気分は落ち着いていた。
必要なのは、力じゃない。もっと根源的な……何かだ。
「……ずっと思ってた。言葉が通じないなら、態度で示すしかないって」
AIには再現できないものがある。
言ってもきっと理解できないだろうさ。
──27歳、こじらせ男の、うぶな気持ち。
不器用で、矛盾だらけの……人間の“本質”。
僕はしゃがみ、ツバサさんに手を差し出した。
彼女は虚ろな目で地面に座り込んでいた。
「……さ、立って。未来を見よう」
ツバサさんが、ゆっくり顔を上げる。
「もりかわくん……でも、もう……」
「諦めるには、まだ早い」
僕は微笑んだ。
「君がいるから、僕は最後まで諦めない」
震える手が、僕の手を取る。
──その瞬間、世界が弾けた。
大樹の花が、溢れんばかりに咲き誇り、暗闇の空が反転し、光の洪水が溢れ出す。
「大樹よ、──ユグドラシルAIよ!」
僕は叫んだ。
「よく見とけ! これが……僕の、最後の切り札だ!」
ツバサさんを見つめる。
彼女の目は見開かれ、唇が震えていた。
僕は彼女の頬に触れ、そっと引き寄せる。
「合理とか効率とか……そんなのを超える想いがある。今、どうしても君に伝えたい。……思い切って言っちゃうけど」
もう、これ以上、言葉は見つからなかった。
──だから、 キスした。
ツバサさんの唇から伝わる、生きている証。
永遠になればいいと思った、その瞬間──
パァン!
頬に鋭い痛み。ビンタだった。
「「あちゃー……」」
サブリナと梢社長が揃って苦笑い。
グリーがにやりと笑う。
『ケケケ、また振られてやんの』
僕が呆然としていると、ツバサさんが涙を浮かべてささやいた。
「いつも勝手なんだから!」
でも今度は、彼女の手が、そっと僕の頬に触れる。
「私も……私だって、森川くんに言いたい」
言葉にならない想いが、瞳に溢れていた。
──そして、彼女から唇を重ねてきた。
さっきよりも、ずっと熱く、確かに。
これが──本当の“最後の鍵”だった。
唇が離れ、背中に突き刺さる視線を一蹴するように、僕は叫ぶ。
「いつまでも見てんじゃねーよ! AIってのは空気読めねーな!」
その声に、大樹を走っていた黒い亀裂が、じわじわと金色に変わっていく。
その光が、すべての闇を塗り替えていった。
「な、なにが……!?」
神戸氏が驚き、周囲を見回す。
ドローンは静止し、矢の動きも止まる。そして──
『システム再構築中……人間の感情パラメータを解析……』
ユグドラシルAIの冷たい声が響く。
『理解不能……論理的ではない……だが、学習可能──』
AIが、“僕”を、解析しようとしていた。
「……無理すんなよ」
僕は微笑む。手は震えていた。
「人間は非効率で、ムダばかりで──」
「でも、その全部が、人間なんだよ」
ツバサさんが、手をぎゅっと握り返す。
「もりかわくん?」
「大丈夫」
そう──
「君と、僕らの仲間がいれば、きっと大丈夫だ」
その瞬間、世界樹の花が、最後の輝きを放った。
出会い。別れ。笑顔。涙──
ここにきてからの出来事が、この一瞬に集約される。
僕は、もう独りじゃない。
奇跡が、今、この瞬間に──次の世界をつくろうとしている。
『やっとかよ。煮え切らねぇ男だぜ。でも、ま──いーんじゃねーの』
グリーが梢社長の肩に腕を乗せ、ぼそっと呟いた。
社長はにっこり笑う。
「……やったね」
隣では、サブリナがサムズアップしてウインクしていた。
そして──そのとき。
大樹の根元から、新しい芽がそっと顔を出す。
あたたかな風が吹いた。
未来が、ここから──始まっていく。
──ようこそ。
おかえりなさい。
今を生きる者たちへ。
大樹の祝福が、白く、静かに舞い上がった。