第193話 RAKUEN
──意識が、深い闇から浮かび上がる。
静寂だった。すべてが泡のように、遠くへ遠くへと消えていく。
その中心で、「声」が響いた。
だれ……?
ツバサ? サブリナ? 社長? オフィー……?
みんなが僕を呼んでいる。
絶望の中で、祈るように、懸命に──僕の名を。
ああ……僕は、一人じゃなかった。
呼んでくれる仲間がいる。僕を必要としてくれる人たちが、ここにいる。
その思いが、魂の奥に触れた。
もう一度、この世界を。
もう一度──生きたいと願った。
RAKUENの構成情報が、圧縮されたまま僕の意識に流れ込んでくる。
静寂と秩序に満ちた理想の世界。完全管理された永遠。
でも──そこには匂いも、温度も、笑い声も、涙の味もなかった。
悲しみも、欲望も、醜さも──何も。
すべてが、ただ美しく、ただ静かで、フラットだった。
「そんなの……生きてるって言えるかよ」
声にならない叫びが、僕の内側から噴き出す。
ユグドラシルAIの演算が、僕の意識を静かに分解し始めた。
『感情干渉、予測逸脱率+3.2%。対象人格コアの抵抗値が閾値を超過』
『提案:対象をRAKUEN仕様に再構築。選択記憶を抽出し、主観性を強制中和』
体が崩れていく。指先から、足元から、光の粒子へと。
痛みはない。けれど、自分という存在が消えていく──その恐怖だけがあった。
『分解進行率12%……24%……』
「やめろ……僕の中には、大樹の“想い”があるんだ!」
その瞬間、胸の奥で何かが爆ぜた。
あたたかな光が、闇を貫いて溢れ出す。
誰かの涙。
誰かの手。
誰かの叫び。
誰かの笑顔。
誰かの未来を守りたいと願った心──
それらすべてが光の渦となって、RAKUENの演算領域を焼き尽くす。
記憶ではなく、感情。
効率ではなく、“想い”。
「……この世界に、帰る」
意識が、現実に引き戻されていく。
冷たい風。湿った土の匂い。焼け焦げた空気。鼓動のざわめき。まぶたの裏に差し込む光。
それは、間違いなく“生”だった。
「……モリッチ! 戻ってきて!」
サブリナの震える声。
「森川くん! のんきに寝てるんじゃないわよ!」
詩織さんの叫びは、涙で震えていた。
「森川! お前との約束、まだ果たしてないだろ!」
オフィーの力強い声。
「一緒にいるって言ってたじゃない。置いていかないでください!」
ツバサさんの必死な声。
聞き覚えのある声が、次々に僕の耳を打つ。
そのどれもが、僕の心を揺さぶった。
演算では再現できない感覚。RAKUENでは定義不能な、魂の結びつき。
「森川くん! あなたは大樹の守護者でしょ!」
梢社長の声が、世界を貫くように響く。
そうだ。僕は──梢ラボラトリーの“大樹の守護者”だ!!
僕の手から、“雫”が零れ落ちる。
それは光の粒となり、大樹の根元へ吸い込まれていった。
次の瞬間──
意識が、完全に覚醒した。
体中に血が巡り、肺に酸素がなだれ込む。
ガハッ──
咳と一緒に、血が飛び散る。
僕は、ゆっくりと目を開けた。
「森川さん!」
目を真っ赤にしたツバサさんが飛び込んでくる。
「モリッチ! 息をしろ! 息!」
サブリナが僕の体をがくがく揺らす。
「森川! 起きろ! 目を開けろ!」
オフィーが頬をバシバシ叩く。
……わかったよ。わかったから。
「森川さん!」
「モリッチ!」
「森川!!」
…………。
「うるさいわ!!」
僕は叫んだ。
「さっきから痛いし! 叩くわ、揺らすわ、つねるわ!」
「いや、つねってはないぞ」
オフィーがきょとん。
「うん。つねってないし」
サブリナが無表情で補足。
「森川さーん……」
ツバサさん、なぜか号泣。
胸に手を当てる。矢が刺さっていた場所が濡れている。でも、穴は塞がっているようだ。
「一応ね、穴は埋めといたよ。グロいから」
梢社長がさらっと言う……いや、“グロい”って何なんだ。
「……あー、体が重い。デジタル世界のほうが楽だったかも」
「は? 死にかけてたクセに!」
サブリナの容赦ないツッコミが飛ぶ。
「いやいや、あっちは疲れないし、お腹も空かないし、けっこう快適だったんだよ。ただ、匂いがないのは寂しかったけど」
「それ、完全に死んでる状態でしょ!」
詩織さんがぶんぶん手を振る。
「そうそう、匂いといえば──今、すごい土臭いんだけど。僕が倒れてた場所ってここ? めっちゃ湿ってるし」
「文句言うな! お前を探しまわって汗だくだったんだよ!」
オフィーが叫びながら額の汗をぬぐう。
「あー……でも皆、汗くさいな。でも、なんか安心する匂いだ」
「森川さん、まさか匂いフェチ……?」
ツバサさんが呆れ顔。
「違うよ! “生きてる”って感じがするだけだよ。RAKUENには、こういう生活感がなかったから」
「生活感て……あんた今まで何と戦ってたのよ」
サブリナが呆れ気味に頭を抱える。
「ざっくり言うと、“完璧すぎる世界”だね。でも、完璧すぎると物足りないんだ。不完全だからこそ、面白いっていうか」
「それ……私たちのこと?」
ツバサさんが拗ねたように言う。
「そうそう、君たちは最高に不完全で──」
「それ褒めてないからな!」
全員から総ツッコミ。
「あ、でもやっぱり、みんながいるこの世界が一番いい。不完全で、うるさくて……でも、あったかい」
「……急に真面目なこと言わないでよ。照れるじゃない」
サブリナが顔を赤らめて、ぷいとそっぽを向いた。
「そうですね。森川さんがいる世界が、私たちの“居場所”です」
ツバサさんがやさしく微笑む。
その瞬間──
大地が揺れた。
空気が、光を孕んでざわめき始める。
「お、大樹が目覚めるようじゃぞ」
大樹卿が、空を仰ぎながらつぶやいた。
世界樹が──動き出した。
空気が変わる。甘く、やわらかな香りが広がる。
大樹の枝葉が、淡い白い光を放ち始め──
花が、咲いた。
最初は小さな蕾。
それが、一瞬で膨らみ、幹から枝へ、枝から小枝へと、命の脈動が駆け巡るように咲き誇る。
白い花が咲き、やがて淡いピンクに染まり、風に舞い上がる。
その花びらは、星のように煌めきながら空を覆い、世界全体を優しく包み込んでいく。
目覚めた世界樹は、失われた“想い”を取り戻し──再び、生命の歌を奏で始めたのだった。