第192話 世界は……
【サブリナsaid】
データの流れに逆らい、意識を逆行させる。
後ろからは、“わたし”を取り込もうと、無数のデータの触手が迫ってくる。
それらを躱しながら、私はひたすらログアウトの手順を繰り返した。
ユグドラシルAIの階層障壁――データブロックの隔壁が次々と閉鎖されていく。
閉じ込められたら最後。私の意識は分解され、完全に取り込まれてしまう。
最短距離で、最速で離脱する。
ここからは、処理速度がユグドラシルAIを上回るかどうかに勝敗がかかっていた。
――ファントム、お願い……!
ユグドラシルAIのプロセスは、ほぼ完了していた。
もう手を出すには遅すぎる。でもだからこそ、この危機を一秒でも早く伝えなければ。
答えはまだ見えない。けれど、私たちの世界を消させるわけにはいかない。
RAKUEN――
AIが創造する“完全なる理性世界”。感情も記憶も、すべてが最適化されたデータとして再構築される世界。そこでは、確かに苦しみは存在しない。けれど、それを「生きる」と呼べるの?
そのとき、ユグドラシルAIの声が空間全体に響き渡った。
『統合率:92.1%。RAKUEN環境試験領域の起動を開始します。現実世界の漸次凍結処理、予定より前倒しで実行中』
始まった――RAKUENが。
私は胸に灯る祈りを握りしめた。モリッチが託した希望。それを、絶対にみんなに届ける。
▽▽▽
まぶたを開く。
眩い光が網膜を刺し、私は反射的に手で目を覆った。
ヘッドギアの重みが頭を圧迫している。慌ててそれを外すと、汗でびっしょりと濡れた髪が頬に張り付いた。
焦げた臭い。硝煙と金属の匂い。外の空気が火照った肌を冷やし、私は小さく震える。
――帰ってきた。現実に。
モモが心配そうに私を見上げている。
「大丈夫だよ」
声をかけながら辺りを見回す。
私は返答に詰まった。広がっていたのは、地獄のような光景だった。
地面には無数の穴が開き、黒い煙が立ち上っている。
神戸氏は負傷した腕を押さえ、矢吹さんに治療を受けていた。
大樹卿は汗だくで杖を高く掲げ、防御障壁を必死に維持している。
その周囲では、無数のドローンが蜂のように旋回し、青白いレーザー光線を断続的に放っていた。
――まるで、空から降り注ぐ死の雨のようだ。
バリアに当たるたび火花が散り、ジリジリと焼ける音が響く。
装甲をも溶かす高温レーザーが、私たちを包囲していた。
「サブリナ!」
オフィーの声が響いた。振り返ると、剣を構えたままの彼女が安心したように微笑んでいる。
「戻ったのね! どうだった?」
そう問いかけてくるオフィーの笑顔は疲労ですり減っていた。
「攻撃、止まらないの……?」
私が尋ねると、オフィーが口をしかめて空を見上げた。
横から梅さんが荒い息を吐きながら答える。
「自律ドローン部隊がこの施設を完全包囲してる。さっきから波状攻撃を仕掛けてきてるんだ。しかも、奴らは学習型AIを搭載してる——攻撃パターンを分析して、どんどん精度を上げてきやがる」
外から響く不気味な機械音。まるで巨大な昆虫の羽音が、建物を飲み込んでいくようだった。
「でも、一番危険なのは……」
オフィーが指差した方向を見て、私は息を呑んだ。
モリッチが倒れていた。胸には深々と矢が刺さっている。
おそらく肋骨で致命傷は免れているが、肺に達している可能性もある。
顔は紙のように蒼白で、浅い呼吸を繰り返していた。
その隣で、ツバサが懸命に手当てをしている。けれど、矢を抜くことができず、戸惑っていた。
一方、外の機械音は激しさを増し、建物が振動し始めていた。大樹卿の防御障壁も限界が近く、光の膜がちらついている。
「みんな、聞いて」
私は立ち上がり、仲間たちを振り返った。
「RAKUENの起動が始まった。もう時間がない」
梢社長が首をかしげる
「RAKUEN? なにそれ」
私は深く息を吸い、緊急事態を伝える。
「RAKUEN計画――ユグドラシルAIが構築する『完全なる理性世界』。感情も記憶もデータとして最適化される。すべてをデータ化し完全で効率的な世界」
私は皆の見回し続ける
「その世界には、苦しみや悲しみははないけど、肉体もなく全てがデータ化された世界。そして、その計画はもう始まってる。その世界が完成すれば、ユグドラシルAIはこの現実世界を廃棄……消失させる」
皆は黙り込んだ。
大樹卿が険しい顔で問いかけた。
「なるほどのー、しかしどうやってやつは、この世界を消すつもりなんじゃ?」
神戸氏が苦々しく答える。
「まあ、このままインフラから何もかも支配されるなら、おのずと滅びの一途ですけどね」
大樹卿は目を細めた。
「それでも、生命が滅ぼされるわけじゃないじゃろ……」
そして何かを考え込むようにうつむいた大樹卿が再び顔を上げて言った。
「そうか、だから、その最後のキーである大樹を乗っ取ろうとしてるのじゃな」
「どういうこと?」
梢社長が困惑する。
「環境はすでに掌握した。次は、生命の象徴であり、地脈のコントロールセンターでもある“世界樹”……それを奪えば、世界そのものの根幹を握れる」
私は大樹卿の言葉に頷いた。
「だからこそ、世界樹を守らなきゃいけない。でも、最後のかけらすら今、奪われようとしてる」
「そのかけらはどこにあるんじゃ?」
「モリッチが今、守ってる」
「なにっ……! あいつ、生きてるのか!」
一同が驚きに目を見開く。ツバサはすがるように私を見つめた。
私は力強く頷いて見せた。
「ユグドラシルAIに奪われないよう、まだ戦ってる」
「そういう事か、ならば何としてでも奴を救い出す必要がありそうじゃな!!」
そして、私は倒れている彼の前に膝をついた。
ツバサの手は、矢を支えるように持ち小さく震えている。
「この矢、下手に抜いたら大出血を……血管を損傷してるかもしれない」
「セーシア。防御障壁はよいから、そっちの治療に専念せい。おぬしの大事な社員じゃろ」
大樹卿がの言葉に梢社長が頷く。
「ツバサ、一緒に救うよ!」
私は迷わず声をかけた。
矢の刺さり具合を慎重に確認する。角度から見て、幸い心臓は外れているようだ。しかし、肺の端に触れている可能性がある。
「私が体を支える。あなたが真っ直ぐに引き抜いて。斜めにしたら内臓を傷つける」
「でも……もし失敗したら……彼が死んでしまう」
「大丈夫。モリッチには、まだやり遂げなければならないことがある。それに――」
私は森川の顔を見つめた。苦しそうな表情の奥に、強い意志が残っている。
「諦めるような奴じゃない」
ツバサが深く息を吸い、矢の柄をしっかりと握った。
「せーの……!」
矢が一気に抜かれた。予想以上に血が溢れたが、すぐに清潔な布で圧迫止血を施す。ツバサの手際は見事だった。
すかさずヒトミッチが治癒魔法をかける。死んでしまえば、魔法も効かない。
少しずつ、それでいて確実に治癒を進める。
やがて、森川の荒い呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
そのとき――彼のまぶたが、かすかに動いた。
「モリッチ……?」
私の呼びかけに、森川の唇がわずかに震える。しかし目を開けることはできず、意識はまだ深い眠りの中にあるようだった。
「戻ってきて、モリッチ! みんなが待ってる!」
彼の手を強く握った。
冷たい手。けれど、そこには確かに微かな脈がある。
絶望の淵にあっても、希望はまだ残されている。
彼が最後のかけらを守り続ける限り——私たちの世界は、ここにある。