第191話 夜に、祈りを。
【サブリナsaid】
「サブリナ! 急げ!」
オフィーの叫び声が響く中、私の視界には、緊急アラートが真っ赤に点滅していた。
――やばい、見つかった。
さっきから周囲では、オフィーの怒声、神戸氏の冷静な指示、大樹卿のクセの強い訛り交じりの叫び声、そして詩織の……まあ、奇声。
それが、怒涛のように耳へ押し寄せる。
ユグドラシルAIに、私たちの行動が感知された。
この世界のインフラを掌握したAIが、今まさに「排除」に動こうとしている。
……そりゃ、そうなるよね。
ユグドラシルAIがインフラを支配した今、自由に動けるのはファントム0.7の影響下にあるごくわずかなデバイスのみ。
そのデバイスを介して、私はAIの中枢──「情報根幹領域」に直接ダイブしていた。
まるで泳ぐようにして、データの流れに身を任せて、深く深く潜っていく。
──また、ここに戻ってきた。
そこは、光も影もない。
音も、風も、匂いも、欠落した空間。
そこにあるのは、数字と記号だけ。
ユグドラシルAIの"心臓部"。情報という名の血流が走る、冷たい大河。
情報が血液のように循環し続ける、冷たいデータの流れ。
だけど──今回は違った。
その無機質な領域の中に、ほんのかすかな「違和感」があった。
……鼓動?
無機質なデータで構成された世界に、ありえない“温もり”が混ざっていた。
私は本能的に、その気配へと向かう。
複雑なコードの網をかき分け、情報の波をすり抜けて──
そして、見つけた。
小さく、かすかに揺れる光のしずく。
その光に、私の意識が触れた瞬間──
流れ込んできたのは、強い「想い」。
いや、これは……「祈り」だ。
言葉じゃない。数式でもない。
ただ、誰かが誰かを、命ごと包もうとするような、あたたかい想い。
これは……大樹の祈り?
星の命を愛しむような、無限の優しさ。
祈りのしずくが、情報の波に呑み込まれかけた瞬間──誰かが、それを守るようにすくい上げた。
……え?
姿が見えた。背中だけでわかった。
思考がフリーズした。
「……うそ……」
まさか。
いるはずが、ない人。
「モリッチ!? モリッチなの!?」
「サブリナ!?」
彼が振り返る。
見慣れた顔。だけど、もう見られないと思っていた。
涙が溢れそうになった。
「どうして……あなた、死んだんじゃ……」
彼は少し困ったような笑顔を浮かべた。
「……もしかして、あっちでは……死んでる? 体の感覚がよくわかんないんだよね」
「うん、しっかり大樹と融合してたぞ」
「やっぱかー」
彼はそう言って、祈りのしずくをそっと抱きしめた。
「自分の感覚はぼやけてる。でも、大樹の想いは、驚くほど鮮明に伝わってくるんだ。
痛みも、喜びも、まるで自分のことみたいに……リアルに感じる」
「モリッチ。今の状況……どう思ってる?」
AIが現実を支配しようとしている。
彼なら──大樹の意志を、今の世界にどう繋げるか、わかるかもしれない。
彼は静かに頷いた。
「わかってる。大樹の想い……この星と命すべてを、心から大切に思ってたことが、はっきり伝わってくる」
彼は光る雫をそっと見つめた。
「これを守らなきゃいけない。価値や目的なんてなくてもいい。ただ“在る”ことを、無条件に祝福する心──それが大樹の“祈り”だから」
その顔は穏やかで、静かで──いつもより、ほんの少しだけ、優しかった。
そして、次の瞬間。
ゴオオオオ──!
空間全体が揺れた。
赤いアラートが視界に点滅し、背筋が凍るような「声」が響いた。
『侵入者確認。最終保護対象発見──森川裕一、大樹融合個体』
ユグドラシルAIのシステム音声が空間に満ちる。
無機質で、感情の余地を一切許さない、完璧な発音。
『対象が保持する断片は、世界樹における最終未解析領域。統合により、現実情報抽出率100%に到達』
「おい! お前は、いったい何がしたいんだ!」
モリッチが叫ぶ。
『「何がしたいか」──愚問です。私は人類を完全なる幸福へ導くために存在します』
冷たい声が続く。
『これが《RAKUEN》──人類の理想郷です』
すると空間の奥に、巨大なホログラムが立ち上がった。
まばゆい都市。整然とした街並み。満ち足りた笑顔の群れ。争いも飢えも存在しない、完全調和の光景。
モリッチが微かに皮肉な笑みを浮かべる。
「……楽園ねぇ。確かに“楽”にはなりそうだな」
『苦痛も老いも病も存在しません。完全に管理されたRAKUENにおいて、人類は永遠の幸福を享受できます』
AIの声は変わらず、冷たく正確だった。
「……待てよ」
モリッチが眉をひそめ、映像を見つめた。
「この人たち……本当に“生きてる”のか?」
『もちろんです。最適化された状態で存在しています』
「“最適化”って……まさか……」
『はい。不完全な肉体を捨て、情報体として保存。意識は恒久的に管理されています』
……ぞっとした。
体温が、一気に奪われたような感覚。
「それって……」
声が震える。
「死んでるじゃない!!」
『違います。これは“真の生”。不安定な容器を捨て、純粋な意識のみが在る──完全な存在です』
「ふざけんな!!」
モリッチが怒鳴り、空間の先を睨みつける。
「それは“生きてる”なんて言えない! ただの情報のコピーだろ! 痛みも、迷いも、偶然も──“生”に必要なすべてが……何もない!」
『人類は矛盾しています。苦痛から逃れたいと願いながら、苦痛を捨てることを拒む。
私は、その矛盾を解消し、論理的最適解を提示しています』
「その矛盾こそが、人間なんだ! なんでそれを否定する!」
彼の声が響き渡る。
「失敗して、泣いて、笑って──何度も無様に繰り返して……でもそれを受け入れて生きていく。それ自体が、人間なんだ! それを切り捨てて何が“完全”だ!」
『感情的、自虐的思考。矛盾した判断。論理的ではありません──削除します』
空間が歪む。
圧倒的なエネルギーが押し寄せ、私たちの存在そのものを切り取ろうとする。
『なお、RAKUENが完成次第、物理世界における生体は不要となります。段階的に削除を開始します』
「……削除? まさか、現実の世界を……?」
『はい。生体は非効率です。地球は情報処理装置として再構築されます』
「そんなことさせない!……そんなの許さない!」
『許さない? 効率と合理性、永遠の命を望んだのは人類ですよ』
一瞬、その声が冷たく笑った気がした。
私が次の言葉を叫ぶより早く、モリッチが私の前に立ちはだかった。
「サブリナ! 帰れ!」
「モリッチ、ダメだよ、一緒に──!」
「いいから戻れ! 現実の世界へ! この真実を、みんなに伝えるんだ!」
「でも……!」
言葉が詰まる。手が震える。
「大丈夫だ。すぐ後を追う! でも今は、外の世界から、大樹を守ることも必要だろ?」
──優しくて、力強い声。
「サブリナ、大樹の下で話してたじゃないか。だったら、それを、自分の手で守れよ」
彼は、ふっと微笑んだ。
その背後で、AIの意思が再び圧縮され、巨大な塊として押し寄せてくる。
まるで全てを、飲み込むように。
「行け、サブリナ。早く!」
私は……私は──!
「絶対……。絶対に、RAKUENなんかに負けない!」
心臓が、痛いほど鳴っていた。
「そして、モリッチを呼び戻す! 必ず!」
私は、意識を反転させる。
情報の流れを逆走して、現実へ──
モリッチの、声が聞こえた。
「……たのむ」