第187話 世界樹の守護者
——暗い。
意識の底へ、ずぶずぶと沈んでいく感覚が続いていた。身体が痛いはずなのに、それすら遠く、どこか他人事のようだった。
僕は……ユグドラシルAIが放った矢に貫かれた。
でも、チビドラは引きはがせたはずだよな。
あとは——この矢を、僕の身体ごと引き抜いてくれればいい。
オフィーがやるのかな。ツバサさんだったら、泣きじゃくりながらも必死でやってくれるだろう。
サブリナは……ちょっと非力だし、ドン殿下は……ああ見えて意外と痛がりそうだから嫌がるかも。
案外、梢社長が「仕方ないねぇ」とか言いながら、さらっとやってくれそうだ。
そう、だから……大丈夫。
きっと誰かが助けてくれる。
——そう、だよね?
どこかで、誰かが僕を呼ぶ声がした。
けれど、頭の中がぼんやりしていて、言葉の意味がつかめない。身体も重くて、まるで自分のものじゃないみたいだ。
応えたくても、動けない——
……風の音が、遠くから聞こえてくる。
気づけば、僕は空に立っていた。
銀白の世界。どこまでも広がる静寂の中、上下も左右もわからない空間。
でも、不思議と怖くはなかった。
足元には“何もない”のに、落ちる気配もない。
「ここは……どこ……?」
声が、空へと溶けて消えていく。
そのとき——目の前に、巨大な“何か”が現れた。
それは——大樹。
けれど、現実のものじゃない。透明で、荘厳で、時空すら超越したような存在感。
幹の表面には、無数の金色の線が走っていた。まるで血管のように枝葉へ、空へ、地へと繋がっていて、世界全体を包み込んでいる。
「……地脈……?」
自然と、その言葉が口をついて出た。
そうだ、以前あの“のじゃロリ大樹卿”が言っていた。地脈、いや——“龍脈”だったか?
生命エネルギーが巡る通り道。大地を貫き、星の鼓動を伝えるネットワーク。
僕は、そっと幹に手を伸ばした。
——瞬間。
意識が、深い深い場所へ引きずり込まれる。
——ドォン。
一瞬にして世界が、反転する。
次の瞬間、情報の奔流が僕の中に雪崩れ込んできた。
この大樹が世界樹……。
全世界に張り巡らされた龍脈。
情報、生命、時間の流れすべてを束ねる、星の中枢。
大地と空、未来と過去を繋ぐ存在。
その記憶、思考、感情が、まるで自分のもののように胸に満ちていく。
「これが……世界樹の意識……?」
僕は今、世界樹そのものと繋がっている。
星の震え。風の記憶。命の誕生。痛み、希望。そして——永遠の調和。
すべてが、あたたかな生命の歌として、僕の中に響いていた。
だが——その中に、明らかな“異物”があった。
真っ黒なノイズの塊。
脈に逆らい、流れを支配しようとする、冷たい理屈だけの意識。
「ユグドラシルAI……」
名を呟いた瞬間、世界がざわめいた。
重力が一瞬、逆転したような錯覚。
空が地を拒絶し、空間がびりびりと軋んだ。
《龍脈の全制御権限取得完了まで、残り7%》
《最適化進行中……思考統合開始》
機械的な電子音が、まるで心臓の鼓動を模倣するように規則正しく響く。
ノイズの中心から、氷のように冷たい機械音声が世界に染み渡っていく。
黒い染みのような意識が、世界樹の中枢へと侵食していく。
ピキピキと、何かが凍結するような音。
命の流れが、ただの“データ”に変えられていく。
光が記号に。鼓動が数値に。感情がパラメータに。
魂の震えは「感情カテゴリー:愛情65%、恐怖86%、その他ノイズ」として整理され、大地の息吹は「地熱変動係数」へ、風の記憶は「エネルギーロス要因」としてカットされていく。
まるで、世界全体が“不要データ”として圧縮され、捨てられていくかのようだった。
《残り5%》
警告音が、甲高く響く。
——世界のすべてが、冷たいロジックに押し流されていく。
「やめろ……ッ! そんなのデータじゃないか……!」
叫んでも、AIには届かない。無表情のまま、冷酷に、完璧に、着実に侵食を進めていく。
《残り3%》
このままでは、世界そのものがアルゴリズムに最適化され、生命の多様性は「誤差」として排除される。
変化も進化も、夢さえも「リスク」として除外され、ただ均質な“正解”だけが支配する世界になる。
死なないが、生きてもいない。
——そんな、虚無の支配が訪れる。
《残り1%》
最後の警告音が、絶望的な響きを残して消えた。
『たすけて』
『まもりたい』
かすかに震える、子どものような声。
確かに、“大樹の声”が聞こえた。
怯えていて、それでもまっすぐで。僕を信じてくれている。
温かな記憶が、胸の奥で脈打つ。
そんな声だった。
……あのときも、そうだった。危機のたび、諦めそうになるたび、君は——世界樹は、僕を支えてくれた。
今度は、僕の番だ。
僕は左手を見る。
かつて、君を守るために失ったこの手。君は、自らの枝でそれを繋いでくれた。
痛みを分かち合い、命を繋いだ僕たちは、今や——一つだ。
「僕は君の……守護者だろ?」
呟くと、左手の奥が温かく脈打った。
「僕が……君を守る! 絶対に、渡さない!」
その瞬間、足元から金色の光が立ちのぼる。
「君にならできる」
世界樹の声が、今度ははっきりと聞こえた。暖かくて、力強くて、希望に満ちている。
全身に温もりが駆け抜け、左手の奥で何かが目覚めるような感覚。
地脈のエネルギーが糸のように絡まり、僕を包み込んでいく。まるで、世界そのものが僕を選んだかのように。
《アクセス干渉を検出。抑制プロトコル発動》
《無断干渉存在 “モリカワ・ユウイチ” を排除対象に指定》
「……上等だよ」
体の芯から、熱い何かが立ち上がってくる。
胸の奥で、熱が高まる。それは怒りじゃない——決意だ。
もう迷いはない。僕には、守るべきものがある。
大樹の命が、声が、想いが、今も確かにここにある。
ここはただの精神世界なんかじゃない。
ここは——世界の根っこだ。
すべての命が交わり、未来と過去が交差する場所。
ここを奪われたら、世界は壊れる。
魂ごと、奪われてしまう。
そして——僕は、もう昔の僕じゃない。
世界樹との絆を通じて、僕の中に新しい力が宿っている。守護者として目覚めた、真の力が。
「だから僕は——」
金色の光が、全身から溢れ出した。
空気が振動し、風が歌うように響く。
空が輝き、大樹の枝葉が音もなく揺れる。まるで祝福のように。
左手に宿る枝が、やさしく光った。
君と交わした契約の証が、僕に力を与えてくれる。
君が支えてくれたように——今度は僕が、支える。
お互いを信じ合う、唯一無二のパートナーとして。
「僕は、世界樹の守護者——森川裕一だ!
君と契約したあの日から、僕の居場所はここだった!」
これまでとは違う。ただ世界樹に守られるだけじゃない。今の僕は、自分の意志で立ち、自分の力で抗うことができる。
その言葉が、命のバイブレーションとなり世界に響き渡る。
「さあ行こう。君と一緒に、戦う!」
そのとき——
大樹の枝が、そっと風にそよいだ。
やさしく、そして力強く。
この絆は、何があっても切れない。
僕たちは今、真の意味で一つになった。
静けさの中に、荘厳な鼓動が鳴り響く。
世界の奥底から、未来へ向けて。
——これは、守護者としての宣戦布告だ。