第183話 サブリナ様だッ!
薄暗い地下室の奥。
そこに、冷気を纏って静かに佇むのは──ファントム0.7。
現代が生んだ最高スペックの、有機量子コンピュータだ。
私は今、その演算体の深奥へとダイブしている。
どれほどの時間が経ったのか、もはや感覚はあやふやだった。
何時間も経ったような気がするし、逆に、ほんの数分しか過ぎていない気もする。
脳に直接流れ込んでくる情報が多すぎて、時間の輪郭はとうに崩れていた。
現在地は、ユグドラシルAIの表層。
《SYUGOSYAプログラム》が保存した“ドラゴン制御ブロック”──その中枢コードを、ファントム0.7の演算力でこじ開けている最中だ。
《SYUGOSYAプログラム》はユグドラシルAIの深層を守る防御システムだ。
これを破れば、ユグドラシルAI自体に介入できるはずだ。
視界のほとんどが、電子の嵐に包まれている。
命令列の奔流。シグナルの雷雨。
光の矢のように閃くコードの奔走を、私はファントム0.7と共に、泳ぐようにして突き進んでいた。
ここは、もはや“現実”の延長ではない。
演算は生命を宿し、データは鋭利な牙となって襲いかかる——まさに、戦場。
相手は、冷徹なまでの最適化を追い求める『合理性の化け物』だ。
寄り道も、ためらいも、休息すら許されない。
ファントム0.7もまた、臨戦モードのまま突き進んでいる。
制御モジュールを切り替え、戦術演算AIを差し替えながら、自走するアルゴリズムで敵コードを切り裂いていく。
私の脳も、すべてをそこに注ぎ込んでいた。
制御、解析、加速、防御──全力で。
——仲間のために。そして、この不完全で愛おしい世界のために。
“効率お化け”なんかに、絶対に明け渡せない。
私がここで倒れたら、モリッチも、ヒトミッチも、ツバッチも……全員、存在を消されてしまうだろう。
ユグドラシルAIにとって、彼らは“不要”なんだ。
このままじゃ、誰も守れない。それはつまり、世界がひとつ消えるのと同じこと。
きっと、奴の支配下でも生活は続く。でも、確実に少しずつ、絞め殺されていく。“変わらないようで、変えられていく”。
そんな未来、こっちから願い下げだ。
絶対に、失敗できない。
……なのに。
「おいおい、本当に大丈夫か? どう見ても劣勢に見えるんだが」
「ですねー。あれっ? なんで姉貴がここに!? って、やばいやばいってば!」
「へぇ~、この女性、君のお姉さん? 美人だね~。僕、叱られてみたいなぁ……今度お茶でも♡」
「絶対ムリ!! 変態は黙れっ!!」
送られてくる映像を見て男ども三人が騒いでいる。
……あーうるさい! なんなのよ、こいつら!
私はいま、神経をギリギリまで張り詰めてるんですけど?
ちょっとでもミスったら、この世界がAIに乗っ取られるんですけど!?
なのに、聞こえてくるのは緊張感ゼロの雑談ばかり。
「危ない! ツバサ! あーもう、どうする、マズいだろ!」
「このモップの柄みたいなの良いね~。エプロンもかわいいなー。僕を“お義兄さん”と呼んでくれていいよ?」
「見んなってば!! 姉貴見るな変態科学者!!」
限界なんですけど!!
なんで緊急事態に、こんな茶番聞かされてるの!?
……でも、なんだか、楽しそう。いつものバカげた会話に胸があったかい。
たぶん私が守りたかったのって、こういうくだらないやりとりなんだ。
「ダメだー! このままじゃ全滅だ!」
イワッチの、今にも泣きそうな声が響く。
本当、賑やかで……楽しそう……?
ひとつの言葉が、引っかかった。
——“マズい”って、何が?
▽▽▽
イワッチが青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「サブ! 本当にヤバい! 過去イチでヤバい! このままじゃ、みんなやられる!」
その声からは、いつもの軽さが消えていた。
ついでに言うと、おっさん口調も消えていた。
まるで、子供のようにオロオロしてる。
背中がゾクリとする。
慌てて遠隔モニターをのぞき込む──
「そんなに……って、うわっ……!」
映し出されたのは、モリッチのカメラとモモのPCからの現場の映像。
そこは──まさに地獄だった。
無数の“ちびドラゴン”が、空を埋め尽くす勢いで飛び交っている。
手のひらサイズなのに、可愛い見た目に反し、動きは……異常。
一体が動けば、他すべてが即反応。まるで一つの巨大な生物のように動いてる。
この挙動は偶然じゃない、完全に統制されてる。
——《SYUGOSYAプログラム》の仕業だ!
仲間たちは散り散り、連携も取れず、モリッチは血を流して剣を振るっていた。
「なんで広域魔法で焼き払わないの?」
「それ、梢社長がさっき撃ったよ。今は魔力切れみたい」
「あー、それ見た。大樹卿とかオフィー、ツバチーたちは?」
「無理だよ! 数が多すぎるし、虫みたいな挙動で翻弄される!」
虫、か……確かに、あの感じ、どこかで……
「これさ~、どうやって群れ全体を制御してんだろうね~」
ヤバ男がモニターを覗きながら、右手で何かを計算している。
ふざけた口調に反して、目は本気のマッドサイエンティストそのものだ。
「あーそっか! 群体アルゴリズムだ! 個体同士が信号を送り合って、まるで脳みたいに動く。蜂、魚……あと、コウモリとか」
——コウモリ!
脳内に火花が走る。あれだ……!
「ヤバ男! こいつら、超音波で通信してる! この波形、見て!」
《SYUGOSYAプログラム》をトレースしたファントム0.7のログを拡大。
脈打つ山形波──これは通信シグナル!
「うわ~、これは見事な24.138kHz。人間の耳には聞こえない超音波帯域だね。こっちで近距離の連携取ってるんだ。で、それに加えて……30.8MHz? なるほど、VHF帯で全体の制御信号を送ってるわけか。群体AIのメイン指令ってやつだね~」
ヤバ男は、感心したように頷き、そして手でパン!と膝をたたく。
「……やれやれ、やっと僕の出番ってわけか。でも、これは手ごわいよ?」
「できる!? 超音波をかき乱す装置、今すぐ作れる!?」
「誰に言ってんの? 僕はファントム0.7の開発者、“ヤバ男”くんだよ?」
言いながら、もう工具を広げて作業を始めている。
……だから、自分で“ヤバ男”って名乗るのやめなさいよ!!
「ただし、携帯サイズじゃ出力不足。空から広範囲に拡散しないとダメ」
「イワッチ、ヘリ呼んで!」
「ヘリ? 継案局の? ああ、待機中のやつか」
「それ! まだ近くで待機してるはず。すぐ連絡して!」
私は立ち上がる。画面の中では誰かが叫び、誰かが倒れ、でも……誰一人、諦めてなかった。
一秒でも早く!
イワッチは連絡しに走り、ヤバ男は怒涛の速さで回路を組む。
ファントム0.7のログには、まだ24.138kHzの波形が脈打っていた。
これをかき乱せば、やつらの連携は崩れる。
そうすれば、ただの小さくて騒がしい飛行物体になるだけ!
ざまあみろ、この不完全で愛すべき世界をなめるな!
仲間は、戦っている。命を賭けて。絶対に、誰一人死なせない。
みんなで帰るんだ、あの日常へ。
それが、私がここにいる理由。
私が戦う理由。
やるなら今だ。誰がやる? 私しかいないでしょ!
——天才ハッカー、サブリナ様だッ!!
「行くよ。戦場へ!」
反撃、開始!