第176話 存在ならざるもの
『やばい! 緊急事態よ!!』
サブリナの金切り声が、通信越しに炸裂した。
『ドラゴンのバイタルデータが……消えた!? いや、変換されてる! これもうドラゴンじゃない! 完全に別の“何か”よ!』
――別の存在!?
慌てて窓の外を見た。
さっきまで空を優雅に舞っていた、あの巨大なドラゴン。だが今、そこにいるのは――まるで異形の怪物だった。
深緑だった鱗は漆黒に染まり、胸部からは青白い血管のような模様が放射状に広がり、脈動している。
以前“神格プロトコル・ノウス”を撃ち込んだ部位は、金属のように鈍く、冷たい光を放っていた。
前のドラゴンは、まだ“理解できる恐怖”だった。生物としての限界があったから。
だけど今、目の前に浮かぶそれは、あらゆる“存在の常識”から逸脱していた。
それはもう「生物」じゃない。
かといって機械でも、魔獣でもない。何かが混ざり合い、ねじれた“異形”の存在だ。
その禍々しさは、見ているだけで肌の内側にまで染み込んでくるような錯覚すら与えてくる。
「……気持ち悪い」
思わず漏れたその言葉に、梢社長が小さくうなずいた。
「わかる。吐き気がするほど歪んでるのよね。普通、生き物って、どこかで共感できる部分があるじゃない? 死への恐怖とか、痛みへの反応とか。でも、あれにはなにも感じない。
“相いれなさ”しかないわ」
そお言う社長は、いつになく真剣で、険しい表情だった。
「つまり……」
「つまり?」
「“生理的にムリ”ってヤツね!」
――嘘でした。やっぱ社長は社長だった。
「存在してはいけないもの……あのドラゴンこそ、ユグドラシルAIの世界の象徴よ。私たち"生きているもの"と、……いずれはぶつかる。生存をかけてね」
ふっと、梢社長が微笑む。その表情に、ほんの少しだけ悲しさが滲んでいた。
その笑みは、どこか切なくて――初めて彼女と出会った日のことを思い出す。
風に揺れる髪の隙間からのぞく、かすかな笑み。
エルフ特有の、何かを達観したような瞳。
「……生存競争、か」
あの頃の俺は、生きる意味なんて考えたこともなかった。
ただ灰色の時間を、漂っているだけだった。
でも今は違う。梢ラボに入ってから――まだ答えは出ないけど、少なくとも「生きたい」と思えるようになった。
――譲れない。
こんな得体の知れない化け物に、俺たちの生活を壊されてたまるか!
「サブリナ! 今の聞こえたか?」
『聞こえたよー』
「どうすれば、あいつを倒せる?」
『うーん、物理的にボコって、細切れにして、燃やせば――まぁ“実体は”死ぬと思うよ』
空を見上げると、異形のそれが悠々と滑空していた。
夜空を背景に、黒光りする体表がぬめるように脈動し、生物と機械の間を揺れるような不気味な存在感を放っている。
「“実体は”ってどういう意味?」
『……今もね、あいつの筋肉の収縮とか、翼の動きとか、全部リアルタイムでユグドラシルAIに送信されてるの』
通信中のホロウィンドウに、うっすらとドラゴンの3Dスキャンのようなフレームデータが浮かぶ。立体構造で表示され、内部構造まで丸裸だ。
『つまり、そこにいる“個体”を倒しても、データさえあれば、何度でも再現できるの。素材があれば、だけどね』
「……なんだよそのチート設定」
サブリナの声が、いつになく真面目になる。
『記録さえあれば、タンパク質やカルシウム、リン、コラーゲン、ケラチン、ヘモグロビン……その辺を素材にして、最後に魔素をトッピングすれば――はい、一丁あがり。これがユグドラシルAI流の“不老不死”よ』
「……それ、いわゆる“クローン”か?」
『うーん、厳密には違うけど、まあ、プロトタイプって意味では似たようなもんかな』
一瞬、沈黙が流れる。
遠くから、風を切る音が聞こえた。ドラゴンは静かに旋回しながら、上空を滑空していた。
『たださ……なんで今、そいつが梢ラボの方へ向かってるのか、それが謎なんだよね』
その疑問に、梢社長がさらりと口を挟んできた。
「たぶん、大樹を消そうとしてるんじゃない?」
『大樹を?』
「そう。大樹卿も言ってたでしょ? 大樹とダンジョンコアは、プラスとマイナス、陰と陽……いわば“対”なの。私とお姉ちゃんみたいに」
……ん? 最後だけ、微妙に私情が混ざったような?
『ある意味、ライバル。目の上のたん瘤。存在がうっとおしいのよ。私にとってのお姉ちゃんもそうだもん』
――だから、私情を絡めるなっての。
「つまり……大樹を破壊しようとしてるってこと?」
「うん、たぶんね。まあ、よくわかんないけど!」
――わかんないんかい!!
「そりゃそうよ、ドラゴンの気持ちなんてわかるわけないじゃん」
『えーと、割り込んで申し訳ないけど――考えてる間に、もう着いちゃうよ』
風が急に強くなった。
闇の向こうに、ゆらゆらと光に照らされたシルエットが浮かび上がる。
――大樹だ。
そう、俺たちは――梢ラボの中枢に戻ってきた。