第175話 聖槍
さっき空をかすめていった、あの巨大なドラゴンの姿が脳裏にちらつく。
「ドラゴン討伐なんて、森川君にできるのかな」
思わず口にした言葉に、大樹卿がヒヒヒと笑い声を上げた。
「大丈夫じゃ。あやつもほんのちょ〜〜〜っぴり成長しとるからの。ほんのちょ〜っぴりじゃがな」
"ちょ~ぴり"というところを親指と人差し指で極小サイズを示して笑う大樹卿。
その横で、ドン殿下が肩をすくめる。
「心配いらないよ。森川ならきっとやってくれる。なんてったって、僕の国を救った英雄だからね!」
にっこり笑うドン殿下に、「そうじゃったな」と、今度は目を細める大樹卿。
――国を救った? なにそれ!聞いてないんだけど!
「そっか、詩織さん、そこはまだ知らなかったんだね」
ドン殿下が続ける。
「森川とツバサさんのおかげで、ロイマール帝国は壊滅を免れたんだ。兄さん、つまり国王も『大きな借りができた』って言ってたくらいだよ」
「え、ツバサちゃんも!?」
魔法が使えるようになったのは知っていたけど、まさかそこまで活躍していたなんて。
「そうじゃ、そうじゃ。あの小娘もなかなかやるのう。……まぁ、森川がチューしようとして失敗したときは、腹を抱えて笑ったがの!」
――チューってキス? なにそのネタ! 詳しく!
そんな雑談に気を取られていた、その時だった。
「うわあああ!」
背後から響く悲鳴。振り返ると、コンビニの陰から女性が飛び出してきた。
その後ろから、黒くうねる魔獣の影。
蛇のような胴体に無数の目玉がぎょろぎょろと動き、目にするだけでゾッとする異形の姿だった。
「詩織さん!」
ドン殿下が叫ぶが、距離がある。梅さんも大樹卿も間に合いそうにない。
間に合うのは――私だけ!
「くっ!」
私は迷わず駆け出した。
手にしたのはモップの柄――先端を尖らせて磨いた、私の「聖槍」。
魔獣は女に迫り、胴体で巻きつこうとする。
「きゃああああ!」
「させない!」
距離3メートル、2メートル――こちらに気づいた魔獣が、目玉をこちらに向ける。気持ち悪い視線が私を射抜いた。
右足を前に踏み込み、腰を落とす。
さっき、ドン殿下と練習した突きの基本動作。
左手で柄を支え、右手で押し出すように――
「せいっ!」
全体重を乗せて「聖槍」を突き出した!
ザシュッ!
手応え――ある!
モップの先端が魔獣の中心にある巨大な目玉を貫いた。
ぬるりとした体液が手に飛び散り、生臭い匂いが鼻をつく。
「ギャアアアア!」
魔獣が苦悶の声を上げ、女性から離れて激しくのたうち回る。私の一撃が急所を突いたらしい。
でも、まだ生きている。むしろ怒り狂って、今度は私に向かってきた。
「うわっ!」
蛇のような胴体が鞭のようにしなって、私の足を払おうとする。
咄嗟に後ろに跳んだ。
足音と共に地面を蹴り、体を宙に浮かせる――なんとか避けたが、着地の瞬間に足元がもつれて――
――やばい、転ぶ!
その時だった。
「詩織よ、よくやった! あとは任せい!」
大樹卿の声と共に、炎の槍が私の頭上を通り過ぎ、魔獣を真っ二つに切り裂いた。
私はホッと息を吐き、女性のもとへ駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとう……ございました……」
女性は震える声で礼を言い、ふらつきながら立ち上がった。幸い、怪我はなさそうだ。
「避難所はあっちです。急いで!」
女性を送り出してから、私は手にしたモップの柄を見つめた。
先端には魔獣の体液がついている。
――初めて、誰かを守れた。
たった一撃だけど。ちゃんと、役に立った。
「詩織! 大丈夫か?」
梅さんが心配そうに駆け寄ってくる。
「はい、問題ありません!」
そう答える私に、大樹卿がフムとうなずいた。
「ようやった。普通なら硬直して動けんところじゃ。やはり、おぬしにも大樹の加護が宿っておるようじゃの」
「大樹の加護? 私に? そんなまさか……」
「冗談ではないぞ。さっき動いたとき、かすかに大樹の気配を感じた」
大樹卿は目を細め、穏やかに笑った。
「わしも、大樹を研究してきて長いが、やっぱりこの世界の大樹には何か他と違うところがあるようじゃの。周りにいる者たちのせいかもしれんが……」
そう言ってにっこり微笑んだ。
「おーい、こっちも片付いたぞー!」
剣を鞘に納めながら、ドン殿下が手を振る。
「じゃあ、他のチームにも連絡しようか」
ドン殿下が言い、私が携帯を取り出そうとした、そのときだった。
ギョエエエエエエエエエー
鼓膜を破らんばかりの叫び声が響き、猛烈な風が襲った。
空を見上げると、あのドラゴンがいた!
だけど、さっきの姿とはまるで違う。
深緑色だった鱗が今は黒ずんでいて、胸元から放射線状に青白い光の筋が走っている。
翼も巨大化し、眼は機械のように青く冷たい。
「なんか大きくなってない? っていうか、色まで変わってる!」
横に立つドン殿下がつぶやき、それを肯定するかのように大樹卿が眉をひそめる。
「大きくなっているどころか、完全に乗っ取られておるな。あの青い目……生者なのか死者なのかもわからぬ。はてさて、ユグドラシルAIとやらに乗っ取られたか? 非常にまずいの」
ドラゴンは、そのまま梢ラボの方に飛んで行った。
その後ろを、ヘリコプターが追いかけていく。
「よし、追うぞい!」
大樹卿が皆を見回して言った。その表情は、さっきとは別人のように真剣だった。
「急がねば、森川たちが危険じゃ。あのドラゴンは、敵味方の区別もつかん。ただ、破壊あるのみじゃ」
梅さんが剣の柄を握り直す。ドン殿下とルリアーノさんが頷く。
「それじゃあ、急ごう。詩織も、今日は本当に頑張った。でも――ここからが本番かもしれんぞ」
私は自分の聖槍を見つめる。
魔獣の体液はもう拭き取ったけど、確かな手応えがまだ手に残っている。
――森川君、ツバサちゃん、無理しちゃだめだからね!
私たちは梢ラボに向かって駆け出した。
空の向こうで、ドラゴンの咆哮が再び響いている。