第168話 コーヒーと銃声②
「音……」
「したね〜」
爆発音? それにこのサイレン……火事? それとも、誰かがケガでも?
「梢ラボのほうから聞こえたよね?」
「だね」
私は扉の外に耳を澄ませる。
ざわざわとした不穏な気配が、空気を通して伝わってくる。
「ちょっと、外見てこようかな」
「ダメ! ダメよ。まだ状況がわかってないんだから。こういう時は、じっとしてた方がいいの」
立ち上がろうとした私の腕を、タイショーがぎゅっと掴んで首を振った。
「ここにいようよ。なにかあれば、きっと連絡が来るよ」
その言葉と同時に、サイレンを鳴らした車が通りを駆け抜けていく。
スピーカーから、アナウンスが流れた。
『住民の皆様、現在、町内に不審者が徘徊している恐れがあります。鍵のかかる建物の中に避難し、安全を確保してください』
「……ねえ、不審者って?」
私が問いかけると、タイショーは首を傾げて、
「私じゃないわよ」
いや、知ってるし! ある意味そうかもしれないけど、今は違うし!
私はキッチンへ行き、長めの包丁を手に取ってみた。……うーん、違う。しっくりこない。
仕方なく、さっきまで使っていたモップを握り直す。
「しおりちゃん! 危ないって! お願い、ここにいてよ!」
タイショーが止めようとするが、私は首を振る。
「でも……でも、何もわからないままで、もし仲間がピンチだったら……それは嫌なの!」
そのまま扉を開け、私は外へ飛び出した。
年末の夜だというのに、通りには誰の姿もない。
雪の気配が漂う冷えた空気が、肌を刺すように痛い。
サイレンの音だけが、遠く近く、不気味に反響していた。
まるで町全体が警告を発しているようだった。
周囲を見回す。
街灯に照らされた道に、人の気配はない。
でも……何かを“感じる”。
「ダメだって! しおりちゃん、戻ってきて!」
背後からタイショーの声。でも、足は止まらない。止まれるわけがない。
ゆっくりと、通りの先へ進む。
——いる。
確かに、何かが“いる”。でも、はっきり見えない。
ヒヒヒヒ……
喉を潰したような、異様な笑い声が聞こえる。
背筋がぞくりとした。
目を凝らすと、街灯の届かない暗がりの、その隅に——「それ」はいた。
……子供?
一瞬だけ、そう思った。
でも違う。
異様に膨れた頭、真っ赤な双眼。人間とは思えない皮膚の質感。手には錆びた剣。
現実離れしたその存在は、まるでゲームから抜け出してきたような化け物、ゴブリンだった。
「戻って! 早く!」
タイショー気づいて叫ぶ。
でも、体が動かない。足が地面に縫い付けられたように、硬直していた。
ゴブリンが、笑いながら一歩ずつ近づいてくる。
ヒヒヒ……ヒヒヒ……
その醜悪な顔が、街灯の下であらわになる。
血管の浮いた肌、裂けた口、そこから垂れるよだれが、アスファルトにぽたぽたと落ちる。
剣の刃先は、部分的にだけ異様に光っていた——まるで、さっき“何か”を斬ったかのように。
ぺちゃ……ぺちゃ……ぺちゃ……
濡れた足音が、夜の静寂を汚していく。
もう、目の前だった。
「ギギャアアアー」
ゴブリンが雄叫びを上げ、剣を両手で高く掲げる。
時間がスローモーションのように流れた——
ガッ!
私は咄嗟にモップの柄を頭上に構え、振り下ろされる剣を受け止めた。
ガキンという金属音が響き、腕に激しい衝撃が走った。
「くっ……!」
力負けしそうになりながらも、必死に耐えた。けれど、ゴブリンの力は想像以上だった。
メキメキ……モップの柄にひびが入っていく。
パキン!
モップが真っ二つに折れ、バランスを崩した私はその場に尻餅をついてしまう。
ゴブリンがニヤリと笑い、再び剣を振りかぶった。
視界の端に、タイショーが「しおりちゃん!」と叫びながら飛び出してくるのが見える。
でも、間に合わない。
——死ぬんだ、私。
そう思った瞬間、シュンという風を切る音とともに、白い影が私の前に立ちはだかった。
「はっ!」
鋭い呼気とともに、白い影が手に持つ剣を一閃。
横一文字になぎ払われた刃が、ゴブリンの胴体を切り裂いた。
ゴブリンは「ギエ……」と短く声を漏らし、上半身と下半身に分かれて地面に崩れ落ちる。
黒い血がアスファルトに広がる。
白い影は、くるりと回ってこちらを向いた。月光の下、マントがふわりと舞う。
「詩織さん、街のアナウンス聞いてました?」
手を差し伸べるその笑顔は、つい先日、店で会ったドン殿下だった。
私は呆然と見上げる。
「後ろ来てるわよ!!」
タイショーの叫びで、現実に引き戻された。
振り返ると、そこには牛のような頭に巨大な角を持つ、斧を振り上げた魔獣——
その瞬間、闇の中から滑るように現れた影が、光をまとう。
シュンッ!
黒髪をなびかせ、チャイナ服の美女が宙を舞う。
その剣が、魔獣の首を一閃!
ズバッ!
鮮やかな断面。魔獣の首が空を舞い、巨体が崩れ落ちて地響きが鳴った。
あの姿、あの髪。見間違えるはずがない。
「……梅ばあちゃん?」
彼女は軽やかに地面に着地し、ニヤリと笑う。
「"もしかして"じゃなくて、梅だよ。久しぶりだね、詩織」
その顔は、若く、美しく、そして妖艶だった。
昔から若く見えたけど、これはもう別人レベルで若返ってる!
「ダンジョンとか潜ってると、いろいろあるんだよ。今はこんな感じさ」
得意げにくるっと回る梅さん。
――なにそれ! 詳しく!
「続きはまた今度。それより、町に魔獣が溢れてる。呑気に外出してちゃいかんよ!」
「そーですよ。今はじっとおとなしくしててください」
ドン殿下も並んでうなずいた。
「みんなは? あっ君やサブちゃんは無事なの?」
「淳史か? 見てないな……どこに行ったんだ?」
梅さんがドン殿下に視線を送る。彼も首を振る。
「悪い、私らもさっき来たばかりでね。詳しいことは森川に聞いてくれ」
「だって、電話つながらないんだよ!」
私がすがるように訴えると、「あー、それAI絡みでね」とドン殿下が納得顔でうなずく。
「今はつながると思いますよ。携帯なら。会社のほうは……潰れちゃったんで、ダメですけど」
潰れた!? 梢ラボが!?
その時、風が巻き起こり、空を見上げる。
——飛んでいる。巨大な“それ”が。
あれは……ドラゴン!?
悠々と飛翔するそれを、後方からヘリが追っていた。
「今の、見た?」
駆け寄ってきたタイショーが息を切らして言う。
「あれって……」
「そう。ドラゴンが出てきちゃった」
ドン殿下が肩をすくめる。
梅さんも、まったく同じタイミングで苦笑いしながら肩をすくめた。
——出てきちゃった、って。いやいやいや、軽いな!?
ドラゴンだよ!? もう現実がRPGじゃん!!
このままじゃ、街が滅びる。
私たちの暮らしてきた日常が、音を立てて崩れていく。
でも……それを見てるだけなんて、もう嫌だ!
さっき、ゴブリンの前で私は震えてた。
動けなくて、叫べなくて、何もできなかった。
さっき、私は震えていた。何もできなかった。
けれど——梅さんとドン殿下は違った。颯爽と現れて、あっという間に魔獣を倒した。
——私だって……!
「私も一緒に行く!」
気づけば拳を握りしめて叫んでいた。
三人が同時に私を振り返る。ぎょっとしたような、信じられないものを見るような視線。
「私も——戦うの! 一緒に!!」
言葉が止まらない。止められない。
怖くても、不安でも、それでも——この手で、私たちの居場所を守りたい。
「やるって決めた! 怖いし足も震えてるし……正直、たぶんお腹も壊してるけど!」
自分で言っててちょっと情けなくなった。でも、それでも——
「それでも、黙って見てるのはもっと無理!!」
あの時、ゴブリンの前でただ震えていた自分。
誰かに任せてばかりで、何もできなかった自分。
そのままでなんて、いたくない。
「……だって、このままじゃイヤなんだもん!!ドラゴンだの、ゴブリンだの、勝手に現れて好き勝手してさ……。ここは私の世界だよ! モップしか持ってないけど、それでも——私の家も、みんなのことも、守りたいんだよ!!」
頬が熱い。寒風にあおられても、その熱だけは、全然冷めない。
「もう、誰かの後ろに隠れてばっかりなんて、そんなの——私じゃない!!
モップは折れたけど、私の気持ちは——まだ、ぜんぜん折れてないんだから!!」
私は、折れたモップの柄を、もう一度、ぎゅっと握りしめた。