第167話 コーヒーと銃声①
詩織は、今日三回目のテーブル拭きと、四回目の床のモップ掛けをしていた。
本日、『喫茶こかげ』は臨時休業。
理由は単純。コックの弟――あっ君が、昼過ぎに岩田さんからの呼び出しで出て行ったきり、まったく連絡がないからだ。
電話も来ない。L〇NEも既読にならない。
気づけば、外はすっかり夜。店内も誰もいない。
まあ、二人のことだし、そう簡単にやられるようなタマじゃない。
心配してるわけじゃない……わけじゃないけど!
それにしても、音沙汰がなさすぎる。
梢ラボに電話しても繋がらず、誰からも何の連絡もない。
何か――とんでもないことが起こっている。少なくとも、それだけは確信できた。
あっ君も岩田さんも、特別な力を持ってるわけじゃない。
梢ラボの人たちみたいに、魔法が使えるわけでもない。
だからって心配してるわけじゃ……ないけど!!
「電話の一本ぐらい、かけてこいっつーの!!」
床にモップを思いきり叩きつけると、ぶわっと水しぶきが舞った。
そして、ちょうどその瞬間――扉のカウベルが軽やかに鳴った。
「ごめんなさーい、今日は休みで……」
反射的に声をかけてから、詩織は相手が“お客さんじゃない”ことに気づいた。
「しおりちゃ〜ん。お邪魔〜♪」
現れたのは、ピンク亭のタイショーだった。
相変わらず、正面から見るとほぼ裸エプロンにしか見えない、ギリギリアウトな服装。
こんな格好でこの寒空の中、平然と歩いてきたのかと思うと、職務質問をしなかった警察官をひとりずつ叱り飛ばしたくなる。
「さっきまで、あっ君たち、うちに来てたのよー。それで、ご報告をと思って、来ちゃった♪」
“来ちゃった♪”のところで人差し指を立ててウインク。
その仕草が妙にサマになってるのがまた腹立つ。その肉体美でそれやる? マジか。
……それはさておき。
タイショーが自分の店を空けて人の店に出歩くなんて、何年ぶりだろう。
その事実だけで、どれほど異常な事態なのかがわかる。
「ねぇ、何が起こってるの? あいつら、出たきり電話一本もよこさないのよ!」
詩織はまたモップを力任せに叩きつける。
水が跳ね、タイショーは「落ち着いて落ち着いて〜」と手をバタバタさせてなだめてくる。
――そして語られたのは、信じがたい話の数々だった。
どうやら、梢ラボが"世界を牛耳ろうとするAI"にハッキングされ、電気も通信もすべて乗っ取られたらしい。
サブちゃんと森川くんはそのAIを出し抜こうと逃げたが、継案特局に捕らえられて監禁された。
それを知ったあっ君と岩田さんが乗り込み、二人の救出に成功。
さらに、なぜか神戸さんとも和解し、今はモモちゃんを連れて、そのAIに対抗するコンピューターがあるダムへ向かったという――。
詩織は途中から、もう頭が追いつかなかった。
ひとみっちやツバサちゃん(岩田さんの妹!)、オフィーリアたちは会社に籠城中。
誰がどこで何をしてるのか、情報が多すぎて把握できない。
……情報過多! 理解が追いつかない!!
なんか、みんなすごいことやってるのに、私だけ、めっちゃ蚊帳の外じゃん。
パンクした頭を投げ捨てて、詩織は言った。
「とりあえず、コーヒー淹れるけど、タイショーも飲む?」
「いただくー♡」
――落ち着こう。
「ねえ、そのAIって、こないだネットでうちの店の評判が急に下がってたのと関係ある?」
「あるある。うちもやられてたんだけど、どうやらあれ、そのAIの仕業だったみたい。口コミを操作して、梢ラボに圧力かけてたんだって」
タイショーによれば、AIはネット操作によって評判を下げたり、世論を誘導したりして、梢ラボを従わせようとしていたらしい。
さらに直接的な攻撃の影響で、通信機器も壊滅。連絡手段が完全に途絶えたという。
「そりゃ、連絡取れないわけだ……」
「でね、うちのモモとサブちゃんが、そのAIの本体をやっつけるためにダムへ向かったのよ」
「……なんでダム?」
「地下にね、でっかいコンピューターがあるらしくて、それで悪者AIを成敗できるんだって。名前は……えっと、"ファラオ"だっけ?……ううん、"ファントム"だった!もう、紛らわしい名前ばっかりで嫌になっちゃう!……で、そこに突入したってわけ」
へぇー……わっかんない。
でも、あっ君たちがとんでもなく危険な場所に行った、ってことだけはよくわかった。
普通の人間が、そんなところへ……。
二人は同時に、ズズズーッとコーヒーを啜った。
窓の外はすっかり夜。
冬らしい風が吹きつけ、ガラスがカタカタと鳴る。
いつもなら満席の時間帯の店内も、今は二人きり。
どこか寂しい空気が漂っていた。
それにしても――。
「ねえ、タイショー。その格好、寒くないの?」
「大丈夫。こう見えて、いつも微熱持ちだから」
ふ〜ん。
二人はまた、静かにコーヒーを啜った。
「……ねえ」
「な~に」
「みんな、大丈夫なのかな?」
思わず口から出た本音。あっ君のこと、心配してるって認めるみたいでちょっと癪だけど。
「大丈夫よ」
「……そだね」
でも、本当に大丈夫なのかな。私にできることって、何もないのかな。
静かな店内には、時計の針の音と、コーヒーを啜る音だけが響いていた。
――その時だった。
遠く、北の方角。梢ラボのある田園地帯の方向から――
……ドン
かすかな、けれど重たく腹に響くような音が、空気を揺らした。
詩織が、カップを持つ手を止める。
タイショーも、黙ったまま、ゆっくりと窓の外へ視線を向けた。
風の音に混じって、別の音が近づいてくる。
「パン」「パンッ」……乾いた破裂音。
間をおいて、さらに数発。――銃声!?。
そして数秒後。それを合図にするかのように、街のどこかでサイレンが鳴り出した。
ひとつ。……またひとつ。
やがて、複数の警報音が町全体を包み込む。
消防、救急、警察――それぞれ異なる音色のサイレンが、幾重にも重なって、夜の空気を引き裂いていく。
音が、近づいてくる。
静かだった街が、少しずつざわめき始める気配がする。
詩織は、持ち上げかけたカップを、ゆっくりとソーサーに戻した。
タイショーは、黙ったまま目を細め、耳をすませている。
それはまるで――嵐の前に吹き始める、最初の風の音。
“何か”が、確かに動き出した。
その気配が、音の向こう側から、じわじわと忍び寄ってきていた――。