第165話 崩壊の序曲
災厄の魔獣──ドラゴン。
奴が今、あの穴から上半身を乗り出し、周囲を鋭く睨みつける。
グギャギャアアアッ――!
耳を裂くような咆哮を上げ、そのまま、奴は大きな翼を広げて体を浮かせ、ゆっくりと上昇する。
この現実世界に、最もふさわしくない存在。
それが、天井を突き破り、空へと羽ばたいた。
……呆然と、それを見上げる僕ら。
誰一人、すぐには動けなかった。
だが――我に返った瞬間、その事の重大さに、頭が真っ白になる。
「やばいやばい!! ドラゴンが出て行った!!」
慌てふためく僕の声をよそに、「あー、にげちゃったねー」と、社長がのんきな声で呟いた。
「しかも……気づいたかの? 奴の中に、ダンジョンコアがあったことを」
のじゃロリ大樹卿が、飛び去ったドラゴンの後ろ姿をじっと見つめながら呟く。
……は? なんて?
確かにあのドラゴン、ただの魔獣とは明らかに違った。
あの異様な存在感──本能が危険信号を鳴らしていたのは、そのせいだったのか?
「ドラゴンに、コアが!? そんなことあるのかよ!?」
「だって、そう感じたんじゃもん。あの子の体の奥で、コアがぷるぷる震えとったからのう」
"じゃもん"とか可愛く言ってごまかすな!
納得できるかっての!
「つくづく……この世界の大樹様とダンジョンは、変わっておるのう」
なぜか感心したように腕を組む大樹卿。
いやいやいや、感心してる場合じゃないって!!
「森川! 行くぞ!」
オフィーの鋭い声に、ようやく我に返る。
僕は慌てて建物を飛び出した――。
▽▽▽
夜の闇が、世界を丸ごと飲み込んでいた。
サーチライトに照らされる社屋だけが、異様な存在感を放っている。
その光が当たるたび、砕けたコンクリート片と歪んだ鉄骨が、影を闇に刻んでいく。
外壁には大穴が開き、そこから今もなお、どす黒い影──魔獣たちが、這い出すように姿を現していた。
外に出て、ようやく気づいた。
街中にサイレンが鳴り響いている。救急か、警察か、それとも非常警報か。
これを聞いて不用意に外に出る人がいないといいが……そんな心配がよぎる。
冷えた空気には、腐臭と硝煙、そして血の匂いが濃く交じり合っていた。
社屋の周囲は、完全に戦場だ。
銃声が絶え間なく鳴り響き、マズルフラッシュが闇を裂く。
その一瞬の光に、魔獣と兵士の死闘が浮かび上がる。
牙を剥いて飛びかかる魔獣。
バリケードの陰から応戦する兵士たち。
火花と悲鳴が入り乱れる。
車両を並べて構築された仮設防衛線。その外では、神戸さんたちの部隊も応戦中だ。
だが、その動きには、疲労の色が濃く滲んでいた。
まるで地獄のような光景。
そして悪夢は、まだ終わっていない――。
「――あああああっ!!」
背後から、ツバサさんの悲鳴が響いた。
皆が振り返ると、彼女はその場に立ち尽くしていた。
今にも崩れ落ちそうなほど、動揺していた。
「どうした!」と、浩司さんが慌てて彼女の肩を支える。
「わ、私の車が……っ!!」
視線の先、炎と瓦礫の隙間に、原型をとどめないほど無惨に壊れた一台の車が転がっていた。
……はいはい。
正直、車なんてどうでもいい。それより、この状況をどう収拾するかだ。
僕は無言で前を向き直り、改めてあたりを見渡す。
ドラゴンは空を舞い、魔獣は街に溢れ、僕らは完全に手詰まり。
これが現実だなんて、まだ信じられない。
崩壊した社屋。飛び交う銃火。暴れ回る魔獣。
そして、夜空を切り裂くように踊るサーチライトの光。
広がっているのは、混沌の地獄絵図。
「上だ!!」
オフィーの声に、僕はとっさに空を見上げる。
そこには、サーチライトの光を浴びながら、悠然と空を翔けるドラゴンの姿があった。
そして、その周囲を旋回する数機のヘリコプター。
おそらくヘルハウンドの輸送ヘリ……チヌークだったか?そんなヘリだ。
その一機が、ドラゴンにやや接近した――その瞬間。
ドラゴンが片翼を振るった。
重く鋭い一閃。
風を裂き、ヘリの機体がぐらついたかと思えば、そのまま田園地帯に墜落していく。
「あーらら。ケガしてなきゃいいけど」
社長が呑気にそう呟く。まったく、他人事にもほどがある。
だけど、これで終わりじゃない。
「ブレスが来る」
誰かが小さく呟いた。瞬間、空気がぴりつく。
ドラゴンが、まるで深呼吸をするように息を吸い込む。
その口元に、炎がちらついた。
そして、次の瞬間――。
轟音と共に吐き出された灼熱のブレスが、空を薙ぎ、社屋へと直撃する。
爆風が壁をえぐり、建物の外装が次々と崩れ落ちていく。
田園風景にぽつんと浮かぶ、かつて白い箱舟のようだった社屋は、もはや原型を留めていなかった。
吹き飛んだがれきの中、中央にそびえる巨大な大樹――それが、ついにむき出しになっていた。
「うわ……こりゃ、見事にやられたな」
浩司さんが苦い顔で呟いた。現実を受け止めきれないような、呆れ混じりの声。
「……大きい……! こうしてみると、会社の中にあったなんて思えないですね?」
ツバサさんが目を丸くし、炎に照らされて揺れる髪が震えて見える。
「やれやれ……これでバレバレじゃな。人間たちに隠してた意味、もうないのう」
大樹卿が、杖を片手に、諦めたように肩をすくめる。
「そういう問題じゃないでしょ!!」
僕が思わず突っ込むと、社長は「ま、どうせバレる運命だったし」と呑気に笑ってサムズアップ。
――何に対してのグッジョブなんだ、それ。
「それにしても、あの大樹……さすがに、無傷なんだな」
オフィーが腕を組み、感心したように頷く。
崩壊した建物の真ん中で、まるで何も起きなかったかのように、静かに立つ大樹。
ドラゴンの炎にすら焼かれず、ただ堂々と根を張っている。
僕らは──いや、ここにいる全員が、魔獣たちですら、その姿に一瞬見入っていた。
「――“あれ”は……揺るぎなく、あり続ける。ゆるぎなく、じゃ」
大樹卿が低く、重々しい声で呟く。
その目は、大樹の上部、空へと伸びる枝の中ほどをじっと見据えている。
「それって、呪いとか、封印とか……そっち系?」
ツバサさんが、怖がり半分、ソロリと伺うように聞いた。
「それはの……後で話すがよい。まずは、ここを生き延びてからじゃ」
その言葉に、全員が自然と息を呑んだ。
そして――銃声が再び鳴り響き、魔獣の咆哮が夜空を裂いた。
戦いは、まだ始まったばかりだ。