第16話 初出社
日付が変わる前になんとかスタート地点の『喫茶こかげ』に戻ったものの、荷下ろしに手間取り、アパートに着いたのは1時過ぎだった。
部屋に入るなりベッドに倒れ込み、そのまま深い眠りへと落ちていく。
意識が消えかける直前——『……おやすみなさい』と誰かが囁く声がした……気がした。
翌朝。目覚ましをかけ忘れたはずなのに、奇跡的に7時に目が覚めた僕は、急いでシャワーを浴び、買い置きのパンをかじりながら部屋を飛び出した。
ついに、今日が初出社日だ。
少し緊張しながら会社の門をくぐり、扉を開けると――中から賑やかな女性たちの笑い声が聞こえてきた。
パーテーションの奥から梢社長が顔を出し、手を振る。
「おはようございます!」
僕が挨拶しながら中に入ると、社長がニコニコしながら近づいてきた。
「おはよう森川君! 朝ごはん食べてきた?」
「はい、食べてきました!」
社長は「よかった」と、安心したように微笑む。
そのとき、パーテーションの向こうから見知った顔が現れた。
「モリッチ、遅いじゃん! 初日から遅刻とか、やるね~!」
ブルーのジャージに、青く染めたボブショートの少女――いや、女性。
サブリナじゃん!? てか、遅刻してねーし!
「森川君! さっそくサブちゃん連れてきてくれるなんて、初日から大手柄だよ!」
梢社長が手を叩いて喜ぶが、僕は慌てて首を振った。
「い、いえ、俺が連れてきたわけじゃないです……」
連れてきたのは岩田さんで、誘ったのは詩織さん。僕はただ付いていっただけだ。
「フッフーン、よかったねモリッチ! 褒められて!」
サブリナが僕の肩をパンパン叩きながら笑う。
まあ、サブリナも機嫌良さげだし、いいか。
「仲良しなんだね! すごいね森川君!」
社長が感心したようにパチパチと手を叩く。
――いや、昨晩会ったばかりです。
しかもまだ24時間も経ってません。
「せっかくだから、サブちゃんも暫くこっちにいれば?」
「それもいいかもね~。そうしよっかなー」
何がせっかくなのか分からないけど、サブリナは腕を組んで考え込んだ。
「そういえば、今日は詩織さんに送ってもらったんですか?」
僕が尋ねると、サブリナはあっさり答える。
「うんにゃ、チャリ借りてきた!」
自由人かよ……。
「なんなら、裏に社宅があるから使っていいよ~」
社長が勧めるが、サブリナは即座に首を振った。
「いやいや、社宅じゃメシが面倒だし、シオッチんとこ居候するよ~」
——淳史くん、ごめんなさい。
「いいな~それ! 私もそうしようかな~」
——あんたもかよ!
「ヒトミッチはダメだろ~。社長だし、エルフなんだから!」
「それって人種差別じゃない?」
「そっかー、なら良っか!」
——良くないって!
「そもそも、社長が取引先に居候なんてマズくないですか!」
慌てて口を挟むと、サブリナも「だよなー、やっぱヒトミッチはダメ」と胸の前で両手をバッテンにした。
「え~」と、がっかりする社長に、なんとも言えない気持ちになる僕だった。
——ちなみに、サブリナも勝手に決めちゃマズイっしょ。
本気で詩織さんのところに行きたかったらしく、落ち込む社長に僕は遠慮気味に尋ねる。
「ところで、今日、何をすればよろしいでしょうか?」
「そうだった! ……えっと、初日って何するんだっけ?」
「そりゃ入社式だろー!」
得意げに胸を張るサブリナ。
いやいや、中途採用でそれはないっす。
しかも式と言っても、僕一人と社長一人で何やるの?
「もしよければ、他の社員の方をご紹介いただければ助かります」
「他の社員は、あっちにいるからね~」
——あっちって、どっち?
「まあ、あっちに行くのは後々ということで、とりあえず席を決めよっか。好きなとこ使ってね!」
「ありがとうございます」
僕は入口に近い机に荷物を置いた。
机は形こそ古めかしいが新品のようで、上も中もすっきり空っぽだ。
「ちなみに、会社の電話って……ないんですか?」
「会社の電話? これじゃなくて?」
社長は携帯電話をひょいと持ち上げる。
サブリナが呆れた顔で言った。
「違う違う! あの黒い電話だよ、ヒトミッチ!」
指差す先には、棚の上に懐かしい黒いダイヤル電話。
「あー、あれね」
棚から電話を持ち上げた社長が、僕たちに見せる。
……ぷらぷらと垂れ下がる、ぶっちぎれたコードとともに。
その有様に僕とサブリナは絶句する。
「そういえば、うるさかったからチョッキンしちゃった!」
——さすが残念エルフ。驚異の行動力。
この事務所に、PCもコピー機も一台もない理由が、なんとなく分かった気がした。
「この会社って、PCもないんですよね」
「今時、PCのない会社も珍しいよなー」
サブリナが呆れ顔で言うと、社長がパチンと手を打った。
「ちょうどいいじゃん! サブちゃんと森川君でそこらへんうまくやってよ!」
前職では一人情シスもやってたし、別にいいけど……
問題は、セキュリティとか、だよな。
考えていると、サブリナが元気よく手を挙げた。
「実はそう思って、いくつかノート持ってきたんだよね~!」
「スゴイスゴイ!」
社長がめちゃくちゃ嬉しそうに飛び跳ねる。
「じゃあ早速、シオッチのところに置いてきた機材を取りに行こう! さあモリッチ、出動だ! 車スタンバイ!」
車? 僕は、徒歩通勤ですが、なにか。
「今日、車で来てないです」
「チッ!」
——サブリナ、いま舌打ちしたよね!?
「会社の車を使えば~?」
梢社長が当たり前のように言う。
「会社に……車、あるんですか?」
「あるよー。動くかどうか分かんないけど」
「社長、歩いてハローワークに来てたから、無いと思ってました……」
「あるある、私運転できないけどね!」
——なるほどね。
「こっちこっち!」
社長は手を振りながら、軽やかに事務所を出ていった。
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