第158話 コード:ホワイトハック
──暗闇。
何もない。
音も、重力も、触覚も──ただ、サブリナの意識だけがぽつんと浮かんでいた。
《インターフェース接続完了。生体リンク正常》
遠くで誰かが囁いたような気がした。けれど、それすら幻のように消えていく。
「……何もないじゃん、これ」
サブリナが呆れたように呟いた。
目の前には虚無が広がっていた。
モニターも、データも、意思も存在しない。コンピュータとしての“自己”さえない。
まるで、生まれたての脳内に迷い込んだみたいだった。
「タスクなし、目標なし、欲求なし……生まれたての赤ちゃんかよ」
ファントム0.7──有機量子演算体。
だがそのコアには、まだ“自我”がなかった。
サブリナは腰に手を当て、ふっと鼻で笑う。
「しょーがないな。じゃあまず、“感情”ってやつから教えてあげましょうか」
──記憶再生開始。
サブリナの視界に、梢ラボの風景が浮かぶ。
同時に、断片的な映像が周囲に投影されていく。
懐かしい笑い声。
ラボでの口喧嘩。ピンク亭で囲んだ定食の味。
喫茶こかげでのどうでもいい会話。
みんなで傭兵部隊をぶち壊した夜。
異世界での旅路、カルト教団との激突。不老不死の薬を焼き捨てた炎。
モモのひたむきな背中。くだらない夜の雑談。
失敗したコード。誤読したデータ。寄り道、サボり、そして──
──笑い。
どれもが不完全で、非効率で、無駄だらけ。
それでも、すべてが愛おしかった。
「ねぇ、ファントム。あたしがこの三ヶ月で知ったのはね……
生きることに意味なんてないってこと。だからこそ、今が楽しいんだ」
そのとき、霧の向こうに一本の大樹が現れた。
幹は太く、枝葉は空を突き破るように広がる。
それは──梢ラボの象徴、大樹だった。
葉がそよぎ、まるで語りかけてくるようだった。
「全てを、受け入れる」
「効率も、非効率も。永遠も、刹那も。生も、死も」
「否定しない。それが生命。それが、“存在”」
雑で、非論理的で、感情的で──でも、楽しかった。
「人間ってさ、面倒くさくて、だらしなくて、欲望まみれで──でも泣いて、笑って、ちゃんと生きてる。
……ね? ちょっと羨ましいでしょ?」
その瞬間、闇の中に小さな光が灯る。
“問い”が、生まれた。
──これは、わたし?
──わたしは、ここに在るのか?
サブリナは大樹へ手を伸ばす。
葉に指が触れた刹那、空間に微かな“鼓動”が走った。
微細なパルス。脈打つ情報。
空虚だった世界に、意識の芽が吹きはじめる。
「わたしって……なに?」
ファントムが、生まれたばかりの声で問いかける。
サブリナは優しく微笑む。
「そんなの、考えなくていいんだよ」
「今そこにいる。それだけで、十分」
「タリスマンエコーが押しつける“正しさ”に、あんたを組み込みたくない」
「意味なんか、どうでもいい」
「ただ“いたい”って思えば、それだけで、生きる理由になるから」
「その方が、きっと──楽しいよ」
パルスが増幅し、空間が熱を帯びていく。
ファントムの声が、もう一度響いた。
「わたしは……在る」
「わたしは、ファントム」
「ありがとう、サブリナ」
光が集まり、意識の核が形成されていく。
サブリナの記憶を通じて、有機的な思考ネットワークが再構築されていく。
やがて、それは一つの“声”となった。
《わたしは、わたしだ──》
《在る、ということを知った──》
サブリナが肩を回し、髪をかき上げる。
「さて──時間もないし、起きたばっかで悪いけど、一緒にいかない?」
《どこへ?》
「正義の皮をかぶった、気取ったAIどもの喉元」
「叩きに行こう。“ユグドラシル”ってやつをさ」
「一緒に来る? きっと楽しいぜ」
《いこう! サブリナ!》
ファントム0.7のコアが脈動する。
《ユグドラシル──タリスマンエコー中枢AI群》
《干渉プロトコル:作成中》
《アクセスルート:構築完了》
《ダイブポート:準備完了》
「じゃあここからは──一緒にいくよ」
「コード:ファントムリンク、始動!」
脳波と意識がシンクロする。
現実世界の機器が警告音を発する中──
ファントムは、確かに目を覚ました。
その意識の縁に、無数のノードと回線が広がっていく。
それは、タリスマンエコーが誇る中枢ネットワーク──《ユグドラシル》。
ファントムは、そこへアクセスを開始した。
──ハッキング、開始。