第156話 ダム湖
夕暮れの空が、群青からやがて深い藍色へと染まっていく。冷たい風が枯れた山肌を駆け抜け、堤防の上には、かすかに雪が残っていた。
曇り空の下、ダム湖は静まり返り、まるで眠れる獣のように沈黙している。
──12月23日。残された時間は、あと一時間。
「ここが“八龍ヶ淵ダム”か……」
岩田さんが呟き、古びた管理棟を見上げる。
鉄骨とコンクリートがむき出しになった建物は、まるで時間に取り残されたような、打ち捨てられた空気をまとっていた。
「……自殺の名所でもあるんすよ」
淳史がぼそっと言い、寒さのせいか、それとも言葉の重みに怯えたのか、肩を小さく震わせた。
「まさに“ファントム”にぴったりの舞台じゃん」
サブリナが端末を構え、どこか楽しげに笑った。
僕と神戸氏が先頭に立ち、その後ろをサブリナ、モモ、岩田さん、淳史くんが続く。最後尾には、黒い警戒棒を手にした矢吹さんが、周囲を警戒しながら歩いていた。
ダム横の管理棟は、不気味なほど静まり返っていた。
「職員……いないんですね?」
淳史くんが不安げに周りを見回す。
「今は、あえて無人にしてもらってるんです。正直、立ち会われると厄介ですから」
そう言い、神戸氏は管理棟を抜けて山の斜面へと踏み込み、地面に埋められた円形の鉄蓋を開けた。
その下には、暗く湿った階段がぽっかりと口を開けていた。
「ここから“実験棟”に下りられるそうだ」
神戸氏と矢吹が突き止めた情報によれば、ファントムの中枢はダム湖の底──正確にはその“脇”にあるという。
「急ごーよ。再起動まで、あと一時間を切ってる」
サブリナが声を低くして言う。
コンクリートの階段を、僕たちは慎重に一段ずつ下りていった。
やがて、古びた鋼鉄の扉に突き当たる。
湿った空気が肌に刺さる。青白い非常灯がぼんやりと灯り、壁には旧時代の地図や注意書きが貼られていた。サブリナが指でそれをなぞる。
「電源ルートは奥の発電ブロックから分岐してる。ファントムのコアは地下四階……階段で降りるしかなさそうだね」
きぃ、と錆びた音を立てて、サブリナが鋼鉄の扉を押し開けた。
その先に現れたのは、螺旋状の金属階段。手すりに手を添えながら、僕たちは一歩ずつ慎重に下っていく。
僕の隣では、小さな毛糸帽子をかぶったモモが、ピンクの手袋をぎゅっと握りしめ、真剣な顔で前を見つめていた。
「モモ、寒くない?」
僕がそう尋ねると、
「……ダイジョウブ。師匠と、一緒だから」
モモは小さく、でも力強く頷いた。
たどり着いたのは、制御層前の隔壁。分厚いロックキー付きの扉が、行く手を塞いでいた。
サブリナが膝をつき、ロックパネルを見つめ確認するように指でなぞる。
「モモ、さっき教えた手順、試してみる?」
モモは無言で頷き、小さな手でピンクのノートPCを端末に繋げ、キーを軽やかに叩いた。
音のない、ぴんと緊張感が張る中、モモの叩くキーの音が響く。
そして、最後に一回、子気味良くパチンとキーを叩く。
──ピコン。
高く澄んだ電子音が鳴り、画面の鍵アイコンが緑に変わった。
「グッジョブ、モモ! よし……侵入口、オープン! 開けゴマっ!」
ガコンッ!
鈍く重たい音を響かせて、隔壁が左右にスライドする。
──やるな、モモ!
すかさずサブリナが、モモの頭をわしゃわしゃと撫でる。
いつも無表情なモモの口元が、ちょっとだけピクッと上がった。
……それが彼女なりの笑顔のようだ。
サブリナがくるりと振り返り、皆に言った。
「さあ、新しい仲間に会いに行こうじゃない」
にっと笑い、前に踏み出した。
その視線の先には──巨大なドーム型の制御室が広がっていた。
中央には、銀色の球体が静かに鎮座している。
──これが、ファントム0.7。
ドーム全体からは冷気が漂い、外壁はうっすらと氷に覆われていた。
まるで、氷に閉ざされた巨大な脳のよう。その存在感は、無音のまま圧倒的だった。
「ちょっと寒いな……」
岩田さんが腕をさすり、ブルルッと体を震わせる。
「大丈夫。稼働し始めたら、すぐに温室になるよ」
サブリナはどこか嬉しそうに、ドームを見つめた。
僕たちがその姿に呆然と見入っていた、まさにそのとき──
「も〜……やっと来たか。遅いよー」
場違いなほど呑気な声が、ドームに反響するように響いた。
声のする方を振り向くと──制御パネルの前に、一人の男がいた。
白衣を羽織った中年の男。
髪は寝癖か爆発かわからないほどボサボサで、ズレた眼鏡をかけ、椅子の上で片足を上げてくるくる回っている。
机の周囲には、飲みかけのコーヒー缶、開きっぱなしの回路ボード、散乱した紙束。
まるで“放置された狂人の巣”とでも言うような有様だった。
その異様な存在感に、僕たちは思わず動きを止める。
──明らかにヤバいやつだ。
皆の引き攣った表情が、それを雄弁に物語っていた。
しかも勝手に喋り続けてるし、机のまわりの生活ごみも……正直、ちょっとキモい。
「……どちら様?」
矢吹が警戒をにじませ、腰の銃にそっと手を添える。
だが、それより早く──男がひょいっと立ち上がり、満面の笑みを浮かべた。
「さっき連絡もらったよ! 君がサブリナかい!?
世界中の官公庁をバックドアで覗き、名だたるクラッカーたちを血祭りにあげ、挙句には某国の核ボタンにまで手を掛けたっていう──あの天才少女ハッカー!」
異様に高い声。
興奮のあまり、手足が小刻みに震えている。
その常軌を逸した熱量に、僕たちは思わず一歩、後ずさった。
サブリナは半眼で、男を一瞥する。
「……誰よ、アンタ」
男は胸を張り、誇らしげに言い放った。
「私はここの“元”主任研究員さ。今はただの管理人みたいなもんだが──まあ、実質ここは僕の部屋みたいなもんだ!
それと、最初に言っとくけどね。AIタリスマン・エコー? あれはクソ。クソ中のクソ。
ファントムこそが、真の叡智だよ!」
――はあ、なに言ってんの。
サブリナの喉奥から、呆れた声が漏れる。
だが──その男の目だけは、驚くほど真剣だった。
「君たち、この子と仲良くなるつもりかい?
だったら……まず、俺の話を聞いてからにしてくれないかな?」
その一言で、場の空気が──ぴたりと凍りついた。