第155話 オーバーライド
一瞬で、皆の顔に絶望の色が浮かんだのが分かった。
「ちょ、ちょっと待って。ファントムって……そもそもどこにあるの? まだ実験段階のコンピューターだよね?」
僕の問いに、神戸氏は苦笑して首を振る。
「それが……正確な位置は、私にも分かりません。“ファントム”の名の通り、まるで幽霊のような存在でしてね。各地に点在する小規模なノードをネットワークで統合した、“分散型構成”になっているんです」
「分散型……でも、まだ試験中なんでしょ? そんな不安定な状態で乗っ取られたら……」
「そこが一番の問題です。理論上は高性能な意思決定AIですが、倫理判断や責任基準は未確立。つまり、“実験段階”のまま無理やり起動されたことで、制御不能な状態に陥る可能性がある」
「……ってことは?」
「簡単に言えば、“正義”の定義が曖昧なAIが、自律的に動き出すんです。都市のロックダウン、ネットの遮断、経済システムへの介入すらあり得る。制御が外れれば、人類にとって“脅威”になるかもしれない」
僕たちは、言葉を失った。
「じゃあ、その制御コンソールはどこにあるの?」
「それは──港湾地下ドックに偽装された《移動式海中ラボ》の中です。制御系は“海中”にあります。うまくいけば、今日その施設をご案内する予定だったのですが……」
神戸氏はため息をつき、重い口調で続ける。
「さらに厄介なのは、“コード:オーバーライド”が発動されてから三時間以内に、ラボが“潜行モード”に入ってしまう点です。その状態になると、通信も電力も絶たれ、完全に“人の手が届かない場所”になります」
──誰も、アクセスできない?
気づけば僕は椅子にもたれ、ガタンと背を倒してしまった。乾いた音が部屋に響く。
「ちょっと待って。制御コンソールが海中にあるのはわかったけど……ファントムの“本体”は? 分散型だとしても、中心になる場所があるはずだよね?」
「それは……正直、私にも分かりません。ノードの位置はすべて暗号化されていて、全貌を把握している人間はいないでしょう。機密中の機密です」
そのとき――
サブリナが矢吹さんの端末を素早くひったくり、画面をスワイプ。指がぴたりと止まった瞬間、彼女の表情がこわばった。
「……起動してる。“予備プロトコル”が」
小さく息を吐き、画面をじっと見つめたまま続ける。
「システムログに微細なトラフィックの痕跡……短波の同期信号があった。これは山間部の閉鎖施設でよく使われるタイプ。つまり――」
顔を上げ、彼女ははっきりと言った。
「ファントム、今は“山の中”にいるってことになる」
――海かと思えば、今度は山かよ……
室内の空気が一気に静まり返る中、サブリナが続けた。
「“予備プロトコル”は、本体が乗っ取られたときに作動する緊急モード。メイン制御系から切り離されて、代替ルートで単独起動する。で、そこに外部と微かに同期してる痕跡があったの。信号のパターンからして、山間部の閉鎖型施設に間違いないわ」
「……じゃあ、そこに直接アクセスできれば、制御を取り戻せる可能性があるってこと?」
僕の問いに、彼女は頷いた。
「そう。ただし、猶予は三時間。それを過ぎれば、完全に“潜行モード”に入ってアクセス不可能になる」
──ファントムが、本当に“幽霊”になってしまう。
「その……“予備プロトコル”って、具体的にどういう仕組みなんだ?」
混乱気味の僕の質問に、サブリナは即答した。
「簡単に言えば、“切り離しモード”。本体が危機的状況だと判断すると、自動的に別の拠点が稼働を始める。まるで、首を切られても別の頭が動き出すようなものね」
「つまり……乗っ取られるのを想定して、“セカンド・ファントム”が隠されてたってことか」
「うん。主システムを自ら遮断して、安全な避難場所に逃げた。今、そのセカンド・ベースが稼働してる。そして、場所はここ」
サブリナが画面をタップすると、地図上に赤い点が浮かび上がる。
「……“八龍ヶ淵”? これ、けっこう近い場所じゃない?」
彼女は眉をひそめ、画面を指差した。
「この座標、地形の凹凸データから見ても地下構造物の中心を示してる。しかも、古い災害対応ネットワークのログに、“閉鎖された基地”として登録されてた痕跡もある」
「そこ、小学校の遠足で行ったことあるっすよ!」
突然、淳史くんが手を挙げた。
「広根川の上流にあるダムっすよね? 地下に資料館みたいなのがあった気がするっす」
矢吹さんがうなずいた。
「たぶんそこでしょう。もともとは災害時の緊急司令施設だったが、いつの間にか機密施設に転用されたと着た記憶があります。名目上は“閉鎖中”のままだが、実際には稼働していたということでしょうね」
岩田さんが言葉を挟む。
「ってことは……今、ファントムがいるのはそのダムの地下、ってことか」
──つくづく、この土地は因果が深い。
古の大樹があり、その秘密が隠され、今では超高度な量子AIが眠っている。
まるで、すべてが仕組まれていたみたいだ。背中がゾクリと冷たくなる。
そんな僕の不安を感じ取ったのか、サブリナが画面を確認しながらつぶやいた。
「再起動まで、あと二時間五十七分。それまでに制御を取り戻さなきゃ、すべてが終わる」
場の空気が再び張り詰める。
そして神戸氏が一歩前へ出た。声には怒気がにじんでいた。
「……本来、ファントムは外部と完全に遮断された実験環境で動かす予定だった。それなのにSYUGOSYAの連中が勝手に外部アクセス回路を開いた。社会インフラへの連結は、まさに暴挙だ」
僕たちは息を呑んだ。
「彼らは、もはや梢ラボだけでなく、この国そのものへの反逆者だ。――矢吹、そう思わないか?」
矢吹さんは俯きながらも、静かに答えた。
「……はい。そう思います」
僕は混乱する頭を整理しながら、確認する。
「……つまり、未完成のまま、現実世界の中枢に接続させたってこと?」
「そう。まだ倫理基準すら定まってないAIを、“神様”のような意思決定システムとして使おうとしてる。都合のいい存在を作ったつもりなんでしょうけど、暴走すればただの化け物よ」
サブリナが顔を上げ、全員の顔を見渡す。
「だからこそ、今やるべきは一つ。一度、電源を完全に遮断して、ファントムを強制的にブラックアウトさせる。そうすれば、モモと私で“再起動プロトコル”に割り込める」
「なるほど……停電からのハッキングってわけか」
神戸氏が目を細めて呟いた。
「映画で見たことあるっす、そういうの……」
淳史くんが真顔で言う。
「映画じゃない、実戦よ」
サブリナがにやりと笑った。
「──やるわよ。あたしたちでファントムを取り返す。そして、タリスマンエコーとSYUGOSYAも……まとめてぶっ壊してやる!」