第153話 逃走
完全に打つ手を失い、僕は呆然としていた。
このままじゃ、タリスマンエコーの思惑通りだ。社長たちがどれだけ抗っても、いずれ社内まで制圧されてしまう。
最悪、大樹は——奪われるだけじゃない。燃やされてしまうかもしれない。
「……くそっ!」
テーブルを拳で叩いた。鈍い音が、冷えきった空気を揺らす。
サブリナがこちらを一瞥したが、何も言わなかった。彼女も同じ不安を抱えているのだろう。
ドリーが念を飛ばしてくる。『落ち着けよ。こういう時こそ冷静になれって』
わかってる。でも、この焦燥はどうしようもない。
何もできず、ただ潰されて終わるのか——?
その時だった。
扉が音もなく開く。
現れたのは、グレーのスーツを着た岩田弁護士だった。
「やっぱりここか……思ったより面倒なことになってんな」
「岩田さん……!?」
その背後から、見慣れた白いコック服が飛び込んできた。
「大丈夫っすか!」
——淳史くん!?
岩田さんは、しかめっ面をしているが、どこか安堵したような顔だった。
「どうして二人が……?」
状況が飲み込めず、僕は戸惑いながら訊ねた。サブリナも目を見開いている。
「森川さんたちが連れてかれるの見て、こっそり後をつけたんすよ。継案に入っても出てこないし……こりゃヤバいって。で、突入っす!」
言いながら、淳史くんが僕の手錠を覗き込む。
「あちゃー、鍵がないとダメっすね。……矢吹さんが持ってます?」
「たぶん、そうだと思う」
「了解っす」
軽く頷いたかと思うと、すぐに部屋を飛び出していった。
岩田さんがこちらに顔を向ける。
「いったい何が起こってるんだ?」
……いや、こっちが聞きたい。
「それ、こっちのセリフです。なんでここに?」
「なんでって、会社が封鎖されてるって聞いて見に行ったら、継案が銃撃してるし、お前ら連れ去られてるし……。追うしかないだろ」
そう言って、岩田さんは手にした銃のようなものをひょいと持ち上げた。
「それ……銃ですよね?」
「ああ。俺のイングラムだ」
イングラム!?
そんなの持ってたの!?
「一応、これでも調停者だからな。有事に備えて、ある程度の訓練も受けてる。……淳史もな」
そういえば、霧影山のときも妙に手際が良かった……さかこの二人、意外とガチ?
ちょうどそのとき、淳史くんが戻ってきた。
「ありましたー、鍵! 矢吹さんが持ってました」
「持ってたって……どうやって?」
「ちょっとだけ叩いちゃいましたけど。大丈夫です、死んでません」
サブリナが思わず吹き出し、口元を押さえる。
「“叩いちゃった”って……アンタねぇ」
「話は後。まず脱出だ」
岩田さんが扉をそっと開け、外を確認する。数秒後、小さく頷いた。
「今なら行ける。ついてこい」
僕たちはすぐに立ち上がり、彼らの後に続いた。
▽▽▽
エレベーターに乗り込むと、無言のまま下階へ降りていく。
「会社の方は……無事ですか?」僕が訊く。
「浩司に見張らせてる。今のところ、まだ持ちこたえてる」
浩司さんは、岩田さんの弟で会社の税理士。調停者の一人だ。
会社が無事だと聞いて少しだけ胸をなでおろす。
「この子、かわいいっすね〜。森川さんの守護精霊っすか?」
淳史くんが、僕の肩のドリーを見て言った。
『なにコイツ、なれなれしい』
ドリーはそっけなく言うが、どこか照れてるようにも見える。
「ツンデレちゃんっすね〜」
淳史くんがにやけ顔で手を振ると、ドリーはぷいっとそっぽを向いた。
そんな二人を見て、さっきまで絶望で一杯だった気持ちが軽くなっていた。
……さっきまで絶望しかなかったのに、ちょっとだけ気が楽になってる自分に気づく。
「着くぞ」
岩田さんの声と同時に、エレベーターが止まり、扉が開く。
そこに——神戸氏が立っていた。
一瞬で空気が凍りつく。
「下がって!」
岩田さんと淳史くんが即座に銃を構える。
神戸氏は目を見開き、ゆっくりと両手を上げた。
「おやおや……これは、どういう状況ですか?」
どこか芝居がかった余裕を含んだ声。
「よくも騙してくれたわね!」サブリナが食ってかかる。
「あやうく、手も足も出せなくなるところだったのよ!」
「……何の話です?」
神戸氏は困惑した顔をする。
「我々は、むしろ君たちを——」
「じゃあ、なぜ僕たちを拘束したんですか?」
僕が声を荒げた。
「矢吹さんに命じたのは、あなたでしょう?」
神戸氏の顔が、一瞬だけ陰る。
「……矢吹が? 君たちを?」
場の空気がさらに張り詰める。
「このウソっこ野郎!!」
サブリナが吐き捨てる。
「神戸さん。ついさっきまで、僕たち矢吹さんに監禁されてたんですよ? 話が違うでしょ」
神戸氏は「矢吹が……?」と、まるで本当に知らなかったかのように呟いた。
「もういい。拘束する」
岩田さんが冷静に指示を出す。
淳史くんが神戸氏の手を紐で縛った。彼は抵抗せず、大人しく従った。
「……行き違いがあったようですね」
「行き違い? ふざけないで!」
サブリナが怒鳴る。
「とにかく、車に乗せる。そいつの車を使おう。鍵は?」
「ポケットの中です」
岩田さんがキーを取り出し、黒いSUVのロックを解除する。
「乗るぞ。そいつは任せた」
岩田さんが運転席へ。淳史くんが神戸氏を後部座席に押し込み、サブリナが隣へ座る。
僕は助手席へ乗り込んだ。
エンジンがかかり、車は静かに駐車場を出ていく。
「とりあえず、ピンク亭に向かう」
岩田さんが短く告げ、ハンドルを切った。