第145話 はじまりの予感
さすがに12月ともなると、コートなしで外を歩くのはちょっとキツい。
いくら暖冬とはいえ、季節はちゃんと巡ってくる。今日は風も冷たくて、冬の本気を感じさせる朝だった。
通勤途中、秋には金色の稲穂におおわれていた田んぼも、いまは茶色い土がむき出しになり、どこか物寂しい。
その中にぽつんと残る小さな森。その中に、まるで浮かび上がるように建つ白い建物——。
「梢ラボラトリー株式会社」
僕の勤め先だ。
入社して三か月弱。最近では、なぜか“都市伝説”の舞台になりつつある。
——都市といっても、周りは田んぼと畑ばかりだけどね。
それにしても、この三か月、ほんとにいろいろあった。
傭兵部隊と真正面から戦い、異世界にも行った。ドラゴンも見たし、あやしげなカルト教団とも相まみえた。
この状況を、三か月“も”と言うべきか、三か月“しか”と言うべきか……
どちらにしても、人生でいちばん濃い時間を過ごしたのは間違いない。
——あと一か月足らずで、今年も終わるんだよな……
年末くらい、何も起こらず、平穏に年越しがしたいもんだ。
そんなことを考えながら会社の門をくぐると、見慣れたベージュの軽自動車の後ろで、段ボール箱と格闘している小柄な女性の姿が目に入った。
「おはようございます、森川さん!」
会社の専属労務士、兼、僕の心のオアシス——ツバサさんだ。
「今日のお昼、みんなでおでんにしようと思って。いっぱい持ってきちゃいました!」
そう言いながら箱の中を見せてくれる。大根、練り物、卵……そして、なぜかネギがぎっしり。
「……ネギって、おでんに入れたっけ?」
思わず漏れた疑問に、「あれ? 使わなかったかな?」と小首をかしげるツバサさん。
うん、可愛いから良し!
「なになに〜? 朝から楽しそう〜」
寒そうに肩を抱えながら、梢社長が会社から出てきた。
「おはようございます! 今日のお昼、ご一緒しませんか?」
ツバサさんがにこにこしながら箱の中身を披露すると、
「すご〜い!」と手を叩いてはしゃぐ社長。ネギを手に取り、嬉しそうに言った。
「お昼からすき焼きなの?」
「おでんです」とツバサさんが即答する。
「あら?」とネギを見つめて首をかしげる社長。
……美人と可愛いが揃って、まあ、これも良し!
「運びますよ」
僕は箱を抱えて、会社の中へ足を踏み入れた。
事務所にはすでにサブリナがいて、パソコンの前で眉をひそめていた。
「おはよー、早いね」
声をかけると、「あっくんが早いんだよ」と、ぶつぶつ文句を言いながらも手は止まらない。
“あっくん”とは『喫茶こかげ』の料理人、淳史くんのことだ。
サブリナはここ三か月、『喫茶こかげ』に居候状態。
最初はチャリ通だったが、寒さが厳しくなってきた最近では、彼に車で送ってもらい、夕方には詩織さんが迎えに来るという、ぬくぬく送迎つき生活を満喫している。
……何様だよ、ほんと。
淳史くん、言いたいことあるなら、今度ゆっくり話そうな!
それにしても、サブリナがあんなふうにイライラしながらキーを叩いているのは珍しい。
キーボードの音がいつもより鋭く、速い。
「どうしたの? なんかトラブル?」
そう尋ねると、サブリナは「ふぅ」と深いため息をつき、背もたれに体を預けた。
「昨日のやつさ。消しても消しても、秒で復活してんの」
「あの掲示板のこと?」
「うん。他にもいろいろ出てきてさ。片っ端から潰してんだけど、まったくキリがないんだよ。人間の手じゃ追いつけないレベル」
サブリナは普段、おちゃらけた態度が目立つけど、裏ではかなりの有名ハッカーらしい。
正直、その世界のことは僕にはさっぱりだけど、“天才”って呼ばれてるのは事実っぽい。
そんな彼女が手こずってるってことは、相手もただ者じゃない。
「じゃあ、サブリナより格上の相手ってこと?」
一瞬、サブリナの目が鋭く光って、僕をじろりとにらむ。……ちょっと怖い。
でもすぐに、いつもの調子で苦笑した。
「ないない。秒で返してくるやつなんて、絶対いないって。これはたぶん……AI。自動で動いてる。もう、マジでムカつくわ」
そう言いながら、テーブルの上の缶コーヒーをひょいと手に取り、一口飲む。
僕も気になってモニターを覗き込んだが、画面には意味不明な文字と数字がびっしり。
……うん、まったくわからん。
そんな僕の様子に気づいたのか、サブリナはカーソルを素早く動かし、ある箇所を指し示す。
「ここ。このコード、"SYUGOSYA"ってやつが、さっきからずーっと邪魔してくるんだよね」
——SYUGOSYA?
ローマ字読みで「守護者」……?
……まさか。
「ってことは、相手は日本人……だったり?」
「それは分かんない。でも、これ、ヘボン式じゃないんだよ。
日本人がよく使うローマ字表記だから……たぶん、日本を意識した『守護者』で間違いないと思う」
そう言って、ウーンと声に出し伸びをするサブリナ。
いつもは飄々としている彼女が、こんなに険しい顔をしてるのを見るのは、たぶん初めてだ。
キッチンの方からは、ツバサさんと梢社長の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
けれど、この部屋は、どこか冷たく静まり返っていた。
それは傭兵でも、カルトでもない。
もっと静かで、もっと底の見えない“何か”。
——それは、デジタルという大海の深淵で、じわじわと世界を侵食していくもの。
そんな悪い予感が、じっとりと背中を這い回った。
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