第136話 悲惨なフラグ
肌を刺す外気は想像以上に冷たく、走っていても体の芯から震えが止まらない。
今さらながら、勢いだけで飛び出してきたことを後悔していた。
なにしろ、ついさっきまで布団にくるまっていたのだ。
軽い外出のつもりで、浴衣の上にコートを羽織っただけの格好じゃ、この季節の真夜中を歩くには無理がある。
……とはいえ、あの場で部屋に戻る時間なんてなかった。
今はとにかく、前へ進むしかない。
隣を並んで走るツバサさんに目を向ける。
彼女もまた、薄手のジャージ姿で、とても夜の山道向きとは言えなかった。
「寒くない?」
「ちょっと……でも、これ、見た目より意外と厚手なんですよ」
白い息を吐きながら、ツバサさんは前方の人影から目を離さない。
「僕のコート、貸そうか?」
「無理しないでください。コート脱いだら、森川さんが凍死しちゃいますよ」
——まあ、そうだけども……。
「今は、とにかく見失わないようにしましょう」
そう言って、彼女は前を向き直った。
月明かりの中、ぼんやりと浮かび上がる赤いフードの影。
足を引きずるように、ふらふらと森の奥へと消えていく。
僕たちは距離を取りながら、その背中を静かに追った。
落ち葉を踏むたび、ざくざくと冷たい音が、夜の静寂に溶けていく。
やがて、森の中にぽつんと建つ小屋が見えてきた。
簡素な作りだが、周囲は妙に整っていて、最近誰かの手が入ったようにも見える。
赤いフードの人物――山城夫人は、小屋の前でぴたりと立ち止まった。
月光に照らされた横顔はどこか哀しげで、夢遊病者のように意識が遠のいているようにも見える。
「……ここって――」
僕が口を開きかけたとき、ツバサさんが小さく囁いた。
「大樹教の屋敷跡にあった、物置小屋ですね」
目を凝らすと、小屋の奥に、屋敷が闇に溶けるように佇んでいた。
「隠れて!」
ツバサさんが小声で言い、僕の頭をぐっと押さえ込む。
不意を突かれ、木の根にゴチンとぶつけた僕は、思わず声を上げそうになる。
その瞬間、ツバサさんが素早く僕の口を手で塞いだ。
小屋の前で、山城夫人がゆっくりと周囲を見回し、扉に手をかける。
ギィ……と鈍く軋む音がして、彼女は中へと消えていった。
「ごめんなさい、痛かったですか?」
「うん、大丈夫……」
頭をさすりながら答えると、案の定、たんこぶができていた。
「どうする? 一旦、宿に戻った方が……」
「何言ってるんですか! 行くしかありません!」
少し怒ったように、ツバサさんが言い放つ。
「でもさ、なんか……嫌な予感しかしないよ?」
「だからこそ、行かなくちゃ!」
そう言って、ぐいっと僕のコートの袖を引っぱった。
──そのとき。
「まあまあ、ちょっと落ち着いてください」
背後から、聞き慣れた声がした。
驚いて振り返ると、そこにはしゃがみ込んだ神戸氏と矢吹さんの姿があった。
「どーもー、あなたのおそばにいつもいます、神戸でーす」
神戸氏はひらひらと手を振り、いつも通りの軽い調子で笑ってみせる。
隣の矢吹さんは「どうも」とぺこりと頭を下げつつ、ウィンドブレーカーを差し出し、「寒いでしょ」と、ツバサさんに優しく微笑む。
「……なんでいるんですか!」
僕が小声で詰め寄ると、神戸氏はオーバーに眉を下げてみせた。
「ひどいな〜。心外ですよぉ……」
しょんぼりポーズは一瞬だけで、すぐにニッコリ顔に戻る。
「心配でついてきた……ってのは冗談で、山城夫人が宿に置いてたバッグを取りに来たのを見たんです。それで、後をつけてきました」
「バッグを?」
「ええ。こっそり来たつもりだったんでしょうが、我々、見張ってましたから。バレバレです」
神戸氏は小屋の方へ目をやった。
「で、どうします? 私たちはこのまま追いますけど」
「じゃあ、僕らはこの辺で……」
言いかけた僕の言葉を、ツバサさんが食い気味に遮る。
「もちろん、私たちも行きます!」
拳を握るツバサさんに、神戸氏は肩をすくめ、ひと言。
「責任は持てませんよ」
それだけ言うと、彼と矢吹さんは小屋へ向かった。
ツバサさんはもらったウィンドブレーカーを羽織り、「さ、行きましょ!」と意気揚々と後を追う。
──行かない方がいいのに……。
僕は、ため息をついて、その背中を追った。
神戸氏たちは、小屋の扉に耳を当てて様子をうかがっている。
やがて、フン、と鼻を鳴らして合図を送り、そっと扉を開いた。
わずかに開いた隙間に、矢吹さんが滑り込むように中へ入っていく。
しばらくして、隙間から顔をのぞかせた彼女が小声で告げる。
「いませんね」
神戸氏が扉を大きく開き、中へ入っていく。
僕たちも続いて足を踏み入れた。
小屋の中は、雑然としていた。
段ボール、埃まみれの農機具、大鋏や鍬、荷車、壊れた箱――所狭しと物が積まれている。
ライトで照らすと、濡れた足跡が奥の箱へ続いていた。
よく見ると、箱を動かしたような跡もある。
神戸氏が矢吹さんに目配せし、彼女が箱をどける。
その下の床に、色の違う板があった。
矢吹さんが神戸氏に目を向け、彼は無言でうなずく。
そして、ゆっくりとその床板をずらした。
——そこには、ぽっかりと黒い口を開けた階段が現れた。
まるで、地の底へと吸い込まれるような、そんな錯覚を覚える。
「……行くしかないようですね」
矢吹さんが、手持ちのライトをカチリと点け、中を覗き込みながら小声で呟く。
その光に照らされ、奥の空間で埃がふわりと舞い上がった。
ひんやりとした空気が、肌にまとわりついてくる。
一歩、また一歩と、矢吹さんは慎重に階段を下りていく。
神戸氏が、肩をすくめてぼそりと漏らした。
「いや〜、いかにも『やばい』って雰囲気ですねぇ……。こういう時、うかつに進むと十中八九、悲惨なフラグ立つんですよね」
それでも彼は、口を尖らせながらも、きっちり矢吹さんの後を追う。
もちろん、我らがヒロイン・ツバサさんも、迷うことなく続いた。
──僕は、二度目のため息をつき、その背中を追った。
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