第129 加護と呪い
腹ばいになり、湿った土の冷たさを肘に感じながら、僕らは樹の陰からその異様な光景を見つめていた。
朝の光が、霧をまとった森をぼんやりと染めていた。
その奥——静まり返った広場に、ぽつんと一人の少女が立っていた。
モモ。
足元には、黒く炭化した御神木の焼け跡。
その中心から、黒い根が音を立ててうごめいている。ねばつくような湿った音と共に——まるで、生きているみたいに。
「……これ、どういう状況?」
サブリナが震える声で呟く。無理もない。それほどに、目の前の光景は異様だった。
「ちなみに、あの子……ここに来たとき、嫌がっていなかったぞ」
隣で膝をついていたオフィーが小声で言った。
顔は影に隠れて見えないが、言葉にはモモへの疑念がにじんでいた。
——嫌がってなかったからって、救わなくていい理由にはならない。
どうしようもなく腹が立った。
「洗脳か? あれ……洗脳なのか?」
サブリナが僕の裾をきゅっと掴む。
確かに、モモは最初ここに来たとき、神木にしがみついて涙を流していた。
まるで、何か大切なものを取り戻すように——優しく、慈しむように。
ふと、自分の左手に視線を落とす。
この手は、梢ラボの大樹から移植され、再生したもの。その加護はいまも、確かにこの手に宿っている。
——モモにとって、あの御神木は“自分の一部”なのかもしれない。
けれど、それが本当に彼女の“意思”だったのか?
ぐらりと感情が揺れ、思わず立ち上がりかけた。
その肩を、オフィーの手がそっと押さえる。
「まだだ。もう少し……見ろ」
その視線の先で、モモが歩き出した。
ゆっくりと、焦げた神木の中心へ向かって。
焦げた残骸から、ねばつく音と共に黒い根が這い出してくる。
まるで死んだ神の臓腑がうごめくように、生々しく、異様だった。
……再生? これが?
「……これ、やばくね?」
サブリナの声が、かすれた息とともに漏れる。
モモの指先が、導かれるようにその黒い根に触れた。
次の瞬間——
ドクン、ドクン、と根が脈打ち始める。
まるで心臓の鼓動のような音が、森に響き渡った。
黒い脈動が地を這い、モモの足元を包み込んでいく。
そして——彼女の瞳が、ゆっくりと濁っていった。
「……やっと、わかったの」
モモが神木に顔を向け、誰かに語りかけるように呟く。
「あなたは……誰かの“願い”から生まれた。だから、ずっと応えなきゃって……そう思ってたんだよね」
その言葉に、根の動きが一瞬止まった。けれど——
次の瞬間、黒い根がモモの足首に巻き付き、締めつけるように絡みついた。
まるで、「だからまだ終われない」とでも言うように。。
「モモ!!」
堪えきれず、僕は茂みから飛び出した。
だが、その前に黒衣の教祖が立ちはだかる。その目には、狂気じみた光が宿っていた。
「また、邪魔をするおつもりですか?」
「お前らのエゴのために、子どもを犠牲にする気かよ!」
「滑稽ですね。あの子が“助けて”と口にしましたか?」
反論しようとして——言葉が喉に詰まる。
「これは犠牲ではありません。彼女自身の“願い”なのです」
「違う! そんなの願いじゃない……呪いだ!」
教祖はにやりと笑い、両腕を広げた。
「ご覧なさい。始まります……」
神木がドクン、と脈打つ。枝がゆっくりとモモの体へと伸びていく。
まるで優しく包み込むように。——いや、それは檻だ。繭だ。彼女を閉じ込めるための。
「やめろ、モモを離せ!」
駆け出そうとしたその瞬間——地面が裂け、黒い根が飛び出した!
「森川、足元だ!」
オフィーの大剣が唸り、根を断ち切る。鋼の煌きが、森の空気を裂いた。
揺れる地面。根が退いたわずかな隙に——僕は神木へと走り出した。
モモの体は、ほとんど枝に包まれていた。まるで木の胎児みたいに。
でも、顔だけは見えていた。目をうっすら閉じ、微笑んでいる。どこか哀しげに。
「目を覚ませ! こんな結末のために、生き延びてきたんじゃないだろ!」
左手に意識を集中する。心の奥で燻っていた光が、緑色に灯る。
「命を代償に願いを叶えるなんて……そんなの詐欺だ!」
叫びながら、掌を繭に突き出す——
——触れた瞬間、
ジジジジ……!
枝が焦げ、きしみ、悲鳴のような音を上げる。モモの眉が、ぴくりと動いた。
「やめなさいッ!!」
教祖の絶叫。御神木が反応し、怒り狂ったように根が暴れ出す。
「くそっ……!」
足元の根を蹴り砕きながら、さらに力を込める。
「モモ! 本当の願いはなんだ! 誰かに決められた想いじゃなくて、お前自身の——!」
繭の奥、光に包まれたモモのまぶたが——ゆっくりと開く。
かすかに唇が動いた。
「……たすけて……」
その一言が、すべてを変えた。
左手の光が爆ぜ、神木の枝が一気に弾け飛ぶ!
「やめろおおおおおお!!」
教祖が叫び、神木へ駆け寄る——が、
オフィーの魔法弾が直撃し、教祖は吹き飛んだ。爆風で幹が揺れ、亀裂が走る。
サブリナが駆け寄り、モモを抱き上げて叫ぶ。
「神がどうとか知らない! 私たちは、友達を取り戻すだけ!」
「サブリナ! そのまま逃げろ!」
その直後——
バババババッ!!
銃撃音が森に轟いた。
「おいおい、グレーテルよ。勝手に終わらせてもらっちゃ困るぜ?」
現れたのは——グリム。
その背後には機銃を構えた兵士たち。全員が、こちらに銃口を向けていた。
「そいつだろ。“種”を宿した子供ってのはよ」
——こいつら、生きてたのか……!
「さあ。ゆっくり子どもを下ろして、こっちに渡せ。脅しじゃねえぞ、グレーテルちゃん」
「……あんたたちの“お菓子の家”は、あの狼モドキだったのに、満足できなかったみたいね」
「急げ。俺は気が短ぇんだよ」
「モモをどうするつもりだ!」
サブリナが叫ぶ。グリムはにやりと笑った。
「知らねぇよ。……ま、切り刻んで“種”を取り出すんじゃねえか?」
薄ら笑いを浮かべる。
サブリナはモモを抱きしめ、後ずさる。
「あなたは何なんですか! そんなもので、神を愚弄するのか!」
今度は教祖が叫ぶ。怒りに震える声だった。
グリムは冷たい視線を向け——
パンッ。
一発の銃声。
教祖の眉間に穴が開き、体がふらりと揺れる。そして、地面に崩れ落ちた。
——撃ちやがった……!
「うるせぇっつってんだよ、このバケモンが」
吐き捨てるように言い、今度はグリムが僕らに銃口を向ける。
「さあ、渡せ。“神の種”とやらをよ」