第106話 宴会
そこは開けた空間で、まるで野原のような場所だった。
誰かが手入れしているのか、一面を覆う草は芝生のように短く揃えられている。
そして、その中央には、大きな焼け焦げた木の幹があった。高さはちょうど腰の位置ほどだ。
——これが、ご神木の亡骸……か。
なるほど、そう言われると、痛々しく見えなくもない。
「本当に焼けちゃったんですね……」
ツバサさんがポツリと呟く。
ふと気がつくと、モモがしゃがみ込み、焼けた木の幹にしがみついていた。
——泣いてる!?
モモちゃんの目には涙がうっすらと浮かび、それが頬を伝っていた。
「モモ……」
思わず声をかけそうになったが、今はそっとしておくべきな気がして、言葉を飲み込む。
その横で、ツバサさんも静かに幹に手を添えていた。
僕も左手で触れてみる。
——何も感じない……か?
一瞬、何かが聞こえたような気もしたが、それはすぐに消えてしまった。
改めて周囲を見渡す。
日は傾き始め、西の空が赤く染まりつつある。
さっきまで聞こえていた虫の声が消えている。
辺りは静寂に包まれ、まるで世界から切り離されたような感覚がする。
どれくらい、そうしていただろうか。
気がつくと、空はさらに赤みを増していた。
僕は軽く首を振り、二人に声をかける。
「さ、あんまりのんびりしてると暗くなるし、そろそろ帰ろっか」
二人はこくりと頷き、ツバサさんがモモの服についた草を払ってあげる。
「さ、帰ろう」
僕たちは静かに、その場を後にした。
帰り道、森に囲まれているせいか、辺りは薄暗さが増しているように感じる。
空を見上げると、朱が混じった青空が広がっている。
けれど、なぜか足元は妙に暗い。
——どこかで、犬の声……?
耳を澄ますと、遠くから低い鳴き声が聞こえてくる。
「今の、なんか変な声じゃないですか?」
ツバサさんが小さな声で呟いた。
「犬じゃないか?」
「犬……かな? 旅館に犬なんていませんでしたよね」
「野犬じゃないかな……」
「そっか、野犬かな?」
ツバサさんは釈然としない様子で呟く。
なぜか、僕たちは足早に山道を下り始めた。
下り坂だから速くなっているだけじゃない。
何かに追われているような気がして、自然と歩調が速まる。
「——あっ!」
ツバサさんの手が外れ、モモが躓きそうになる。
僕は慌てて手を伸ばし、肩を掴んで支えた。
——こういう時だけは、オフィーのスパルタ訓練も無駄じゃなかったと思う。
僕は思い切ってモモを背負うことにした。
彼女も素直に僕の首に腕を回す。
「しっかりつかまって」
そう声をかけ、先を急いだ。
別に、何かが追ってきているわけじゃない。
それでも……早くここを出なきゃいけない気がして、足が止まらなかった。
——きっと、車の中でサブリナと変な話をしたせいだ。
そう、自分に言い聞かせることにした。
木々の間に仄かに広がる灯りが見え、ようやく気持ちが落ち着いてきた。
きっとツバサさんも同じ気持ちだったのだろう。
二人で顔を見合わせ、ほっとしたように笑みを交わす。
背中のモモちゃんが、肩越しにふっと息を吐くのがわかった。
そのままロビーに駆け込むと、見知ったメンバーたちが出迎えてくれた。
「モリッチ! どこ行ってたんだよ!」
ロビーの奥、ソファでくつろいでいたサブリナが手を振る。
そして、僕の隣にいるツバサさんを見て、ニヤリと目を細めた。
「なになに、早速、個別行動かよ~?」
やーねー、と隣のオフィーの肩を叩く。
その奥にいる岩田さんの視線が、やけに鋭く光っている気がしたが、今はスルーしておいた。
「夕食は鶴の間で六時半からだぞ!」
オフィーの一声で、僕らは急いで部屋に戻り、温泉へ向かった。
浴場には屋外の岩風呂もあったが、それは後のお楽しみに取っておいて、今は手早く体を洗い、部屋に戻ることにした。
準備を済ませ、食事の広間へと急ぐ。
途中、浴衣姿の宿泊客を何人か見かける。
どうやらこの旅館には、僕たち以外の客も泊まっているらしい。そのことに、なんとなく安心した。
広間はいくつかあるようで、「鶴の間」と書かれた札のかかった部屋の前でスリッパを脱ぐ。
ちょうどツバサさんとモモちゃんと合流したので、そのまま一緒に中へ入った。
広間にはすでに膳が並べられ、みんな席について今か今かと待ち構えている。
「よーし、みんな集まったねー!」
梢社長が立ち上がり、グラスを掲げる。
「それでは第一回、梢ラボラトリーの社員旅行の宴を開催します! カンパーイ!」
掛け声とともに、社長は勢いよくグラスを煽った。
しばらくは和気あいあいと食事が進み、アルコールが回ると、場のテンションも上がってきた。
岩田さんには、なぜかしつこく「ツバサとどこに行ってたんだ?」と問い詰められ、何度説明しても納得しない。
その様子を見ていた淳史くんは、なぜかツボに入ったのか、終始ゲラゲラと笑っている。
宴もたけなわとなったころ、ツバサさんが青ざめた顔で僕の肩を叩く。
「森川さん!」
「どうしたの?」
「今、部屋を出たら……あの人がいたんです!」
「あの人?」
「あの登山道で会った、お二人ですよ!」
——あぁ、あのご夫妻か。
もしかすると、さっき見かけた浴衣姿の人が、あの二人だったのかもしれない。
「もう……私、怖くて走って戻ってきちゃいました」
そこまで怯える必要はないように思えたが、ツバサさんにとっては何か引っかかるものがあったのかもしれない。
「ちょっと見てきますよ」
そう言って、僕は席を立ち、部屋を出た。
廊下には誰の姿もなく、僕らがいる「鶴の間」の前だけにスリッパが並んでいる。
他の部屋の前には人の気配すらなく、明かりがついているのに妙に静まり返っていた。
僕はそのままロビーへ向かう。
——やけに静かだ……。
何かの気配を感じる。だが、それが“何”なのか、はっきりとわからない。
見えない何かがそこにいるような、そんな妙な怖さがあった。
広間に戻ろうと踵を返した、その瞬間。
——そこに、突然、男が立っていた。
思わず叫びそうになる僕を見て、その男は可笑しそうに微笑み、言った。
「何かありましたか? 森川さん」
——か、神戸さん!?
そこにいたのは、内閣継案特務管理の刀剣使いにして、やけにハンサムな男、神戸氏だった。
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