第105話 老夫妻
森の中を進む登山道は、それほど狭くもなく、道もそれなりに整備されている。
歩きにくいということはない……傾斜さえなければ、だ。
「くっ……キツい……」
一歩踏み出すたびに、足がじわじわと震え出す。
一方で、隣を歩くツバサさんとモモちゃんは、涼しい顔で歩いていた。
時折、心配そうにこちらを見てくるモモちゃんの視線が、なんとも痛い。
「森川さん、大丈夫ですか? ちょっと休みます?」
ツバサさんが優しく声をかけてくる。
僕は会話の流れを装いながら、そっと立ち止まり、腰に手を当てて背筋を伸ばし、余裕の笑みを浮かべる……ふりをする。
その様子を見たツバサさんは、前方に見える木製のベンチを目指して歩き出す。
「ふぅー……でも、ちょっと疲れましたね。モモちゃんも、あそこで一休みしよう!」
そう言いながら、ツバサさんはベンチに行き腰を下ろす。
——間違いなく気を遣われている……
とはいえ、限界を迎えている僕は、その優しさに甘えることにして、隣に腰を下ろした。
ツバサさんはボディバッグからタオルを取り出し、「どうぞ」と手渡してくれる。
さらに、もう一枚取り出し、モモちゃんにも「はい、どうぞ」と渡す。
——そのバッグ、何枚入ってるの……?
くだらないことを考えてると、ツバサさんが道の先を見ながら言う。
「結構歩いたみたいですけど、まだ着かないですかね?」
すると、ちょうどその先から二人の登山客が降りてくるのが見えた。
男性と女性の……老夫婦?
男性のほうは、疲れ切っているのか足元がふらついている。
女性は彼を支えるように肩を貸しながら、ゆっくりと降りてきた。
彼らは、ちらちらとこちらに視線を向ける。
僕とツバサさんは、咄嗟にベンチを立ち、場所を空ける。
「ありがとうございます」
男性が苦笑いを浮かべながら、ベンチに腰を下ろした。
「すみませんねぇ。この人、体が弱いのに無理しちゃって」
女性が申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえいえ、気にしないでください」
ツバサさんが軽く手を振る。
女性は僕ら三人を見て優しく微笑む。
「ご家族でハイキング? 楽しそうね」
女性の言葉に、一瞬、何を言われたのかわからず固まる。
そして、その意味を理解し、思わず照れてしまう。
ツバサさんは、顔を真っ赤にしてうつむき、モモちゃんが不思議そうにそんな彼女を見つめていた。
「い、いえ! 僕らは会社の同僚で、この子は知り合いの娘さんなんです」
慌てて訂正すると、「あら、ごめんなさい。とっても仲良しに見えたものだから……間違えちゃったわね」と、女性は朗らかに笑った。
最初は息も荒く、苦しそうにしていた男性も、ようやく落ち着いたのか、女性と微笑みを交わしている。
「神木の跡地を見てきたんですか?」
ツバサさんが空気を換えるように尋ねる。
「ええ。以前来たときは、まだ立派に葉を茂らせた見事な木だったんですけどね……今は見る影もなくて……」
男性は寂しそうに俯いた。
「この人、昔から心臓が弱くてね。このご神木様にいつも祈願していたんですよ。そうすると、不思議と体調が良くなって……でも、もう今では……」
女性の声も、どこか沈んでいる。
「焼けたのは三年前って聞きましたけど……」
ツバサさんが静かに言うと、女性が小さく頷く。
「そうなんです。でも私たち、その間ずっと海外にいたものですから……主人の体調がどんどん悪くなって、戻ってきたんです。それで、空港から直接ここに来たんですが……まさか、こんなことになってるなんて……」
男性が頭を抱え、ため息をつく。女性はそっと彼の背中をさすった。
「『命約の大樹教』とかいう連中が、ご神木様を燃やしたんですよ……許せない」
男性が暗い瞳を上げ、虚空を睨む。
——え? 『命約の大樹教』が?
「ご神木は、雷で燃えたって聞いてますけど……」
僕が戸惑いながら問いかけると、男性は強く拳を握りしめた。
「違う! 奴らの仕業に決まってる! 以前だって……」
怒りを滲ませた声に、モモちゃんがびくりと肩を震わせる。そして、不安そうにツバサさんにぎゅっとしがみついた。
「お父さん!」
女性が慌てて夫の腕を掴む。
「お嬢ちゃんが怖がってるでしょ。落ち着いて……」
彼女の声に、男性ははっとし、ゆっくりと息を吐いた。
「あの『命約の大樹教』ってのは、大樹様の力を独占しようとしたクズ人間の集まりですよ」
男の言葉に、胸の奥がチクリと痛む。
——ある意味、梢ラボラトリーも、大樹の守護者とは言っているが、一方でその恩恵を独占しているともいえる。
とはいえ、その力を公にすれば、傭兵集団ヘルハウンドのような連中に悪用される危険もある。
いったい何が正解なのか……
きっと、僕は怖い顔をしていたのだろう。ツバサさんが僕の様子をチラリと見て、気遣うようにそっと僕の袖を掴んだ。
そして、男性に向けて言う。
「でも、そのカルト集団は、もう解体したって聞いてますけど……」
「本当にそう思うのか?」
男はジロリとツバサさんを睨みつけた。
「奴らはまだいる。何か企んでいるに決まってるんだ。あんたらも気を付けた方がいい」
男の目は鋭く、まるで見えない敵を睨んでいるようだった。
「奴らはな、おかしな呪術を使うんだ。人の命を何とも思っちゃいない。やられる前にやらなきゃ、殺される……」
吐き捨てるように言う男性。
ふと女性の方を見ると、彼女もいつの間にか瞳のハイライトが消え、どこか一点をじっと見つめていた。
——正直、急に弱々しい老夫婦が、まるで恐ろしい化け物に見えてきた。
背筋を冷たいものがぞくりと走る。
「ご神木の亡骸は、この上にある。見てくるといい。あなたたちの目で、しっかりとな」
そう言い残し、老夫妻はすっとベンチから立ち上がった。
先ほどまで疲れていたはずの男性は、まるで別人のようにしっかりとした足取りで、女性とともに山道を下っていく。
「なんだ……あの夫妻……?」
思わず、ぽつりと呟く。
「ちょっと、あれでしたね……」
ツバサさんが、僕の袖をぎゅっと握る。
そんなツバサさんの腰には、顔を埋めてしがみつくモモちゃんの姿があった。
お読み頂きありがとうございます!
是非!ブクマークや、★でご評価いただければ嬉しいです!
よろしくお願いいたします。