第1話 ようこそ。梢ラボラトリーへ
駐車場の一番奥に車を停めるのは、いつもの習慣だ。
なぜか目的地から一番遠い場所を選んでしまう。
特に心地よいわけでもない。むしろ、そんな自分に嫌気が差して、不愉快になる。
それでも、そうしないと落ち着かない。
何かを少しでも先送りにしようとする気持ちが、こんな形で表れているのかもしれない。
合理的じゃないことは、わかっている。
そんな自分にイラつきながらも、直せない。
——癖なんて、そんなものだ。
その日は、失業手当を受け取るためにハローワークへ向かった。
5日ぶりに早起きして、5日ぶりに部屋を出て、5日ぶりに人と話す。
たったそれだけなのに、想像以上に疲れてしまった。
手続きを終え、いつものように駐車場の一番奥に停めた車へ向かう。
そのとき——。
「ねえ、少しだけ時間いいかな?」
振り返ると、一人の女性が立っていた。
透き通るコバルト色の瞳が、まっすぐに僕を見つめている。
長い銀色の髪が秋風にさらりと揺れ、背はすらりと高い。
淡いグリーンのフード付きコートを羽織り、深めにかぶったニット帽が顔の半分を隠している。
それでもわかる。
まるで絵画の中から抜け出してきたような、非現実的な美しさ ——いや、そんな言葉じゃ足りない。
美人、可愛い、綺麗……どれでもなく、それ以上の魅力。
僕は彼女に見とれ、車のドアに手をかけたまま、中腰の姿勢で固まってしまった。
「少しお話ししてもいい?」
透き通るような声が、心地よく響く。
「あ、はい……。なんでしょう?」
ぎこちなく返事をする僕に、彼女は微笑み少し首をかしげた。
「その姿勢、辛くない?」
我に返り、慌ててドアを閉める。
腰を伸ばして直立の姿勢に戻り、ついでに深呼吸した。
「改めて……。はい、なんでしょう?」
彼女は僕の正面に立ち、じっくりと視線を上下させながら眺め回す。
上から下へ。そして、下から上へ。
そのたびに、「フムフム」と小さく声を漏らしている。
——フムフムって言う人、本当にいるんだな……。
ぼんやりそんなことを考えていると、彼女は満足そうに微笑み、胸の前で両手を合わせた。
白い手が小さくパチンと鳴った。
「君は今、失業中で間違いないですね?」
いきなり痛いとこをついてくる。
しかも、美人に言われると余計にダメージが大きい。
「ええ……まあ、一応、仕事を探してますけど」
失業という言葉を避けたかった僕は、言い方を変えて返す。
が、それを見透かしたように、彼女はもう一度念を押す。
「失業中だよね?」
「……はい。失業中です」
——スイマセン。
すると彼女は、ようやく満足したように微笑み、ぽつりと言った。
「それは幸甚です」
幸甚? ……そんな言葉、ふだん聞かない。
「あら。この世界では『それはとても助かりました』みたいな感謝を伝える言葉じゃなかったかな?」
え? ……僕、いま声に出てました?
彼女は微笑み、両手を合わせた。
「ごめんね。私、少しだけ分かるの。相手が考えていること」
——つまり、頭の中を読まれてる……?
「この世界にも『テレパシー』とか『シンパシー』みたいな文化があるんでしょ? 面白いよね」
そう言って、彼女は肩をすくめ、照れくさそうに笑った。
いやいや、そんな能力、漫画やテレビでしか見たことないけど……。
それより、今……「この世界」って言った? まるで、別の世界が存在するみたいな言い方じゃない?
なんだか、彼女の言葉の選び方に不自然さを感じてしまう。
「まあ、いいでしょ! つづきは会社に戻ってからゆっくり話しましょう。さあ、車を出してくれる?」
彼女は楽しげに手を振り助手席側へ回ると、まるで舞台の上で踊るバレリーナのような優雅な動きでドアを開けた。
そのままスルリとシートに滑り込み、背もたれに体を預けると、満足げに微笑む。
「えーと、僕の車で行くんですか?」
「もちろん! わたし車持ってないし、ここに来るまでも大変だったよー。だから、乗せてってね!」
助手席で無邪気に微笑む彼女を見て、じわじわと不安が膨れ上がる。
けれど、嬉しそうな彼女を前に何も言えず、流されるままにエンジンをかけた。
「その会社って近いんですか?」
僕が尋ねると、彼女は首を振った。
「車ならすぐだよ。でも、歩いてきたからすごく時間がかかったよ」
「歩いて来たんですか?」
「そ。わたし車ないもん。朝の6時に出て、ずーっと歩いて来たの」
……今、もう11時ですけど。
「歩くのは嫌いじゃないけど、周りが車ばっかりで気分が悪くなっちゃったよ」
彼女はため息をついて肩をすぼめた。
僕はそんな彼女を横目にカーナビを操作する。
「えーと、住所を教えてもらえれば、ナビで行きます」
「住所? 大丈夫。案内するから、まっすぐ進んで」
言われるままに車を出すと、彼女はドアのあたりを探るようにしながら、ふと首をかしげた。
「ガラスを開けるノブがないね」
ノブって……最近の車にはないっす。
「窓、開けます?」
「全開で!」
笑顔で答える彼女に、僕は慌ててパワーウィンドウのスイッチを押した。
窓が下がり、秋の風が勢いよく車内に吹き込む。
彼女は目を細め、『いい風』とつぶやき、嬉しそうに僕へ微笑んだ。
その無邪気な笑顔に、一瞬ドキリとする。
しばらく車を走らせ、川の堤防に出たところで、川上へ向かって左折した。
窓の外では太陽の光が川面にきらきらと反射し、その光が隣に座る彼女の横顔を一層輝かせていた。
隣に女性を乗せて走るなんて経験がないので、なんだか緊張する。
彼女の髪が風に揺れるたび、ほのかに甘い香りが車内に広がっていく。
40分ほど走った頃、彼女が突然声を上げた。
「あ! そこ、次の道を左に降りて!」
指示された通りに堤防を下ると、田園風景の中にまっすぐ伸びる道が現れる。
左右には、風に揺れる稲穂がどこまでも広がり、その先にはぽっかりと浮かぶ小さな林。
その林に守られるように、白い二階建ての建物がひっそりと佇んでいた。
「そこ、そこ。中に駐車スペースがあるから、入っちゃって」
言われるがままに車を停める。
白い建物は思っていたよりも大きく、正面には広いガラス張りの壁が張り出している。
いったい何の建物なのか、見ただけでは分からない。
彼女はさっさと車を降り、大きく伸びをしながら「うーん」と声を漏らした。
青空に向かって両手を広げる姿は、まるで一枚の絵のようだ。
そして、振り返った彼女はにっこりと微笑み、こう言った。
「ようこそ。梢ラボラトリーへ」
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