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マグリットはイザックに卵を預けると、ミアの肩に掴みかかる。
ミアの手は微かに震えていた。
これは醤油に何かあったのだとマグリットは確信する。
無事に味噌が完成して、あと三カ月ほどで醤油も出来上がるという時に一体、何があったというのか。
マグリットの胸はドキドキと音を立てていた。
「ショウユが腐ってしまったからと、オリバーが……っ!」
「────ッ!」
それを聞いた瞬間、マグリットは醤油が保管してある食糧庫に急いだ。
オリバーはシシーとマイケルの孫で、ミアの双子の弟だ。
するとマグリットの視線の先、醤油が入っている容器をひっくり返そうとしている姿が見えた。
「オリバーッ、待って……!」
マグリットがそう言うのと同時に、ジャーという音と共に茶色や黄土色が混ざったものが、生ゴミを堆肥として利用しているコンポストがあるのだが、その場所に液体が流れていく。
それを見てマグリットは足を止めた。
ショックが大きく声が出なくて、唇が音を紡ぐことなく開いたり閉じたりを繰り返す。
オリバーは爽やかな笑顔を浮かべながら、こちらに手を振っている。
「あっ、マグリット様……!」
「オ、オリバー……それっ、それはっ」
「このショウユなんですが、表面にカビが生えてましたよ? マグリット様が見たらがっかりすると思ったので……!」
オリバーはそう言って困ったように笑った。
マグリットはその場に膝をついた。
そしてガクガクと全身を震わせていた。
(わたしの醤油がぁ……醤油っ、しょうゆ……っ)
視界が涙で滲んでいく。
明らかにオリバーに悪気があった訳ではない。
それはわかっている。わかっているからといって、この涙は止められそうになかった。
「マ、マグリット様……!?」
「……あっ…………あぁ……」
「嘘だろ……もしかしてカビじゃなかった?」
「だからマグリット様に確認した方がいいと言ったでしょう!?」
ミアの怒鳴り声が響く。
オリバーは空の容器を持って、その場を右往左往している。
マグリットは涙と鼻水、声にならない声が出続けていた。
オリバーが勘違いしたのは醤油もろみの表面を白く覆っているカビのようなものだろう。
それは産膜酵母といい、カビではない。
産膜酵母が出てきたとしても、醤油もろみの中に沈めるようにしてかき混ぜれば問題はない。
けれどこの世界ではカビも酵母も紙一重。
オリバーはマグリットを悲しませないようにと動いてくれたのだ。
最近、かき混ぜることを怠っていたため、このようなことになってしまった。
(あと……数カ月で醤油が完成して……卵焼きとか煮物とか、刺身につけたりなんかして)
マグリットは醤油が出来上がったら何を作ろうかと、レシピを書き溜めていた。
それに手作りの醤油は、出来上がるまでにかなりの時間がかかる。
味噌は三種類ほど時間差や置く場所を少し変えつつ、作ったのだが醤油は二瓶だけ。
(二瓶……? 二瓶ってことはまだ希望があるわ!)
醤油は失敗してもいいように保管場所を変えて作っていた。
マグリットがオリバーに問いかけようと、顔を上げた時だった。
「ど、どうしよう……全部流しちゃった」
「────ッ!!!!」
オリバーが両腕の中で抱えているのは、醤油が入っていたであろう瓶が二つ。
それを見た瞬間、マグリットの中で何かがプチンと切れた。
──バタン
マグリットは全身から力が抜けていくのを感じていた。
「マグリット!?」
「……マグリットさまぁ!」
イザックやミアが叫ぶ声が聞こえたが、マグリットはそのまま倒れてしまった。
そしてイザックがこちらに駆け寄ってくる。
マグリットを抱え上げた拍子に庭山さんの卵が、マグリットの前でパカリと割れてしまった。
つやつやとした半透明の白身、その上にぷっくりとなだらかな山を作っている黄身がマグリットの前に姿を現す。
無惨に砕け散った卵の殻はマグリットの心を表しているようだと思った。
「ごめんね……卵。さよなら……醤……油……っ!」
マグリットがそう言うと、何故か小屋にいるはずの庭山さんの姿がある。
急いでこちらにきたため、鍵を閉め忘れてしまったようだ。
庭山さんは卵を割ったマグリットを責め立てるように頭を高速でつついている。
マグリットの頭がグラグラと揺れる。
あまりの大きなショックに、そのまま意識を失ったのだった。