光あれ、手の届かぬ先にばかり
地下都市、最上層で発生した、居住区の崩落。街を覆っていた天蓋は崩れ去り、この時代に生きる者たちがまず直接見ることのない、本物の空が覗いていた。分厚い雲から胞子が降り続けるばかりの、陰鬱な空ではあったが。
カティーが確信をもって伝えた通り、救助隊は彼女の捜索をのみ目的としてこの場を訪れたらしい。同じ居住区には数多くの行方不明者が埋もれていただろうものの、どうせ他の住人はことごとく地上世界に降る胞子に触れ、菌糸に脳を蝕まれて理性を失った後だろう。
救助隊の面々は、傍に転がされていたハリコを抱き上げているマナコには目もくれず、カティーが身を潜めている密閉式のベッドを運び出す手筈をすぐさま開始した。
「本来のドア部分は、開かないのか。」
「ダメだ、歪んでしまってビクともしない。部屋に入った亀裂部分を広げる必要がある。」
分厚い防護服に身を包んだ彼らは、口々に声を掛け合いながら、工具を用いてベッドを運び出すための経路を確保する作業を開始した。
地上からの胞子が既に大量に入り込んできてしまっている状況では、カティーを密閉式ベッドから出すわけにはいかない。彼女はその内部に籠っていればこそ、危険な胞子の影響を受けずに済んでいるわけであり、安全に避難を完了させるためにはベッドごと移動させる以外に手段はなかった。
分厚いシャッターによって声が遮られてしまっているためか、内部からカティーの声が聞こえることは無かったが、ときおり水がパイプの中を流れるような音が聞こえる。
「相当な重さと大きさだ、このベッドを運び出せるほどの開口部を作るにはかなり時間がかかるんじゃないのか。」
「仕方がないだろう、カティー様が内部で生存するための空気や水を収めたタンクも内蔵されているんだから。」
カティーが自ら生き延びるため準備した仰々しい装置を運び出すため、救助を任ぜられた面々は難儀している様子であった。
折り重なる瓦礫の中で力尽きている、肥満体の少年の体を邪魔だとばかりに足蹴にすることにも、彼らは何らの躊躇も見出さなかった。
そんな彼らを後目に、四肢の無いハリコの身体を抱きしめたまま瓦礫の外へ出たマナコ。彼女は崩落してきた岩盤や天蓋に押しつぶされた居住区を眺めるように見回していたが、その視線はどこかうっとりした表情とともに、上へと向けられがちであった。
「あんなに遠くまで、遮られずに見通せるなんて、初めてですねぇ、リコくん。」
「ウン……。」
「あれが地上なんですねぇ……巨大な、ふわふわした天井にずっと覆われているんですねぇ、あれはどうやって支えられているんでしょうねぇ。」
「ウゥー。」
むろん、ハリコもマナコも、現実に地上の光景を見るのはこれが初めてであった。
頭上に空というものがあること、雲が浮かぶこと、そのいずれも地下世界では決して知り得ない光景であった。
ただ、不気味さは感じなかった。ハリコは、以前幾度か経験した幻視の中で、ほぼ同じ景色を毎度目にしていたのだ。
「参りましたねぇ、あんなに巨大な風景が、地上にあるなんて知ったら……地下都市の窮屈な景色を、邪魔っけに感じちゃうじゃないですかぁ。」
「……ウン。」
「崩落してきても、この居住区の天蓋を覆っていたガラスが割れていないのは、見事なもんですけどねぇ。」
マナコは、チラと視線を目の前に広がる街の瓦礫へと戻す。
地上の遺構から取り外されて回収されたという、幾枚もの巨大で分厚いガラスの板は、見事なまでに一枚もヒビひとつ入っていなかった。現代の技術では到底再現できない過去の遺産は、皮肉なまでに地下都市の構造物との信頼性の差を示していた。
かつて地上世界に栄えた文明水準の高さを物語るそれらは、今、重量を支え切れずに砕けた周囲の岩盤とともに、居住区の建造物群を圧倒的な重量で押しつぶしていたのだ。
「リコくんの身体が、完全に砕かれてなくてよかったですよぉ。あんな頑丈な部屋に入れてもらってたおかげ、ですかねぇ。」
「ウゥ゛。」
マナコが振り返る先では、救助隊の面々が、ようやくカティーの部屋の壁に入った亀裂をベッド幅まで広げ終えていた。
カティーの屋敷の直上にも崩落物は降り注いでおり、建物の殆どを跡形もなく粉砕していた。が、カティーの寝室だけは唯一、大きく形を歪めながらも、辛うじて部屋らしい形を残していたのだ。
まるで彼女が、この惨禍にいずれ襲われることを予見していたかのような、ピンポイントに頑健な構造であった。
「リコくんにまた会えたら、色々な事をお話したいと思ってたんですけどねぇ。」
「ウー?」
ずり落ちかけていたハリコの胴体を、マナコは再び抱え直し、屋敷の瓦礫からさらに離れる。
少しでも高い所に上ろうとしていたのか、マナコは崩落してきた岩盤の上に足を乗せたが、脆く砕かれたそれはグラグラと不安定に揺れてすぐ転がっていってしまう。
彼女は諦めたように後ずさり、それでも視線は上に向けたままであった。
「この景色を見ちゃったら、何もかも忘れちゃいましたねぇ……地上、行きたくなりますねぇ。」
「……ウン。」
厚く垂れこめた雲から、絶え間なく胞子が降り注ぎ続けている。
全土は広く深く張り巡らされた菌糸であまねく覆われ、よほど巨大な海洋でもない限り、ほとんどの地形が菌糸の層に埋没してしまっている世界。胞子でことごとく埋め尽くされた空間は、大気中の温度や湿度をほぼ一定に保ち、光を乱反射させて明暗の差をも生まない。
地下都市で暮らし続けて今に至るまで、一度も目にしたことの無い光景のはずではあったが、改めて見上げる地上の空は、ハリコの中に望郷の念にも似た思いをこみ上げさせていた。
「けれど、地下都市で一番地上に近いこの場所でも、地上へと上がれそうな道はありませんねぇ。どうすれば、地上へ行けるんでしょうかねぇ。」
この居住区の天窓が崩壊してくる前は、表面に積もる胞子を掃除するため地上部分に出されっぱなしのリズァーラーたちが居たのだが、彼らがどのようなルートで外部へと出されたのかは不明である。
居住区の残骸が広がるこの場所から脱する道は、ただ一つ、地下都市の内部へと戻っていく以外にない。
「ウゥ゛ゥ゛……。」
自分達を取り囲む岩盤の壁を見上げ、ハリコも無念そうに唸る他、術は無かった。
背後で、ガラガラと耳障りな音が響く。先ほどまでカティーの部屋に開口部を設けようとし続けていた救助隊の面々は、遂にカティーが中に籠るベッドを引っぱり出すことに成功したらしい。
移動させることまでも前提とされていたのか、ベッドの下部には車輪がつけられていた。
「慎重に移動させろ、破損させないように。カティー様がわずかにでも胞子に触れられてはいけない。」
「おい、お前、戻ってこい。地下都市内へ戻るルートの確認を行え。」
カティー救出の場から離れた位置へと移動していたマナコに気づき、救助隊の一人が鋭く命令を投げかけてくる。
マナコはハリコと共に、今一度名残惜しげな視線を地上の空へと向けていたが、気の向かぬ様子は隠さずともその場に背を向けた。
「仕方ありませんねぇ、私が居ないと、あの方たち、真っ暗な中を移動できないもんですからねぇ。」
「ウゥ、ウゥ、ウゥ゛ゥ゛。」
「気持ちは分かりますけど、リコくん、管理局に与えられた任務には逆らえないのが、私達ですからねぇ。」
リズァーラーの中でも数少ない、完全なる暗闇の中で視力を利かせることのできるマナコ。彼女にカティー救助隊同行の指示を与えたのは、管理局だったらしい。
視線を上へと向けながら、唸り声を上げてばかりのハリコを抱え、マナコは救助隊の面々がベッドを押し運んでいる所へと戻っていく。
地上世界への憧憬を切実に抱えながらも、人間に隷属し、指示通りに働くことにのみ存在意義を見出すこともまた、リズァーラーの中に深く刻まれた習性であった。




