担わざるを得なかった咎との再会
初めて訪れた上層街、その中でも最上層に位置する街での暮らしは、人間の感性においては贅沢な環境であったかもしれないが、リズァーラーたるハリコには大した変化として受け取られなかった。
四肢の無い状態で寝かされ、身動きできないままに時が過ぎるのをただ待つ他にないことに変わりはなかった。言葉を発せず、ただ唸り声しか上げられないハリコには、周囲に何らかのメッセージを伝えることも叶わない。
下層の排水管で過ごしていた頃との大きな環境の違いは、巨大なガラス天窓越しに地上から常に降り注ぐ光が部屋の外から入ってくること、そして新鮮な空気が無尽蔵に供給され続けていることである。いずれも富裕層の暮らしでのみ許される環境だったが、リズァーラーの生存にはいずれも不必要であり、大して魅力が増したようには感じられない。
「ゆっくり休めたかしら?リズァーラーさんを保護するのは私も初めてなの、何か居心地の悪いことがないかしら……あなたが言葉を喋れたらいいのだけれど。」
「……。」
他にこれまでとの違いがあるとすれば、ハリコの身柄を買い取り、保護している屋敷の主、カティーが頻繁に様子を見に来ることぐらいであった。
寝かされてただ存在し続けるだけの状態にハリコが満足していないことは事実であったが、“可哀想な存在”を保護する活動に満足を見出している彼女に、それを伝えることは仮に言葉を発せたとしてもほぼ不可能であったろう。
あまりにも自分とは感性のかけ離れた人間を前にして、ハリコは不要な気遣いを起こさせることを自然と避けようとしていた。何も声を発さず、表情も変えずにいる状態を保つことに専念していたのである。
「そうそう、リズァーラーさんなら、ある程度湿度が必要かと思って。空気供給のせいで乾燥してしまってはいけないから、加湿器というものを買ってきたのよ。地上世界の廃墟から回収された品で、今は誰も作れる職人さんが居ないんですって。」
「……。」
ジメつき、カビの繁殖しやすい排水管の中であれば気にする必要もなく実現される環境を、そのような貴重品を用いて再現するのが上層街でのやり方らしかった。
寝かされているハリコの傍らに、彼女は表面の白く磨かれた機器を置く。内部から引き出されたタンクの中に、水差しから清潔な水をふんだんに注ぎ入れ、電線を繋いで起動すると間もなく白い蒸気が音もなく噴霧されはじめる。
下層街の貧困層では入手するだけでも相応の苦労を求められる清潔な水が、惜しげもなく細かな湯気となって蒸発させられ、部屋の空中へ散っていく。
「静かなオブジェね。出て来た湯気が、空中でいろんな形を作ろうとしては消えていく。姿の無い彫刻家が、空中に音もなく作品を刻んでいるかのようね。」
「……。」
加湿器を置いたテーブルに頬杖をつき、しみじみと語るカティー。
この部屋の中、この短時間で消費され続けている空気、水、そして電力だけでも、下層街では目玉の飛び出るようなコストが掛かっているだろうことを、彼女が気に留めることなど永遠に無いように思われた。
不意に、呼び鈴の音が扉の向こうから響く。下層街にて労働者たちを呼び出すための耳障りなブザー音とはかけ離れた、澄み通った金属音が響かせる上質な鈴の音。
「あら、来たみたいね。ちょっと待っていてちょうだい、あなたにも新しいお友達を紹介できるかもしれないわ。」
「ウゥ……?」
「子供たちを引き取る里親制度にも、私は登録しているの。下層で労働させられていた可哀想な子を引き取る手続きを済ませたから、今日から新しい家族が増えるのよ。」
“登録”や“手続き”という文言が出てくるあたり、既存の制度に従うのみで善行を達成している彼女らしい発言であった。
カティーが部屋から立ち去った後、ハリコは孤独の中で瞬きを繰り返し、先ほど告げられた内容の中で引っかかった感覚について考えを巡らせていた。
下層にて労働させられていた子供、保護のために引き取られていく彼ら……しばらく記憶の残滓を攫っていたハリコは、それらの内容を耳にしたのが、エネルギー供給プラントにおける任務でのことだったと思い出した。
閉じられた扉の向こう側、新たに屋敷へと保護対象を迎え入れたカティーの声が近づき、その傍らに少年の声も聞こえてくる。
「驚いたでしょう、この上層街では明るいのが当たり前なのよ。さぁ、荷物を部屋に置いたらキッチンにいらっしゃい。」
「俺、腹は減ってないんだけど。」
「匂いを嗅いだらすぐにお腹がすくことになると思うわ、ちょうどアップルパイが焼き上がるところなんだから。」
地下世界にて栽培される作物の中でも、栄養分を殊に多く必要とする果実や穀類、そして乳製品の類。
原材料の時点で相当な貴重品となるそれらを、贅沢に費やした料理を口にできる人間は、地下都市のなかでもほんの数人だけであろう。当然ながらこの少年もピンと来ない様子で聞き返している。
「なんだ、それ。聞いたことがない。」
カティーと会話している声の主についても、ハリコは十分に聞き覚えがあった。その体型を反映して多少野太いものの、まだ変声期を経ていない子供の声。
あのエネルギー供給プラントの冷却部で、延々と冷却用の水をバケツで運ばされ続けていた子供たちの一員。リーダー格であるため労働監督官から食糧を優先的に与えられていたばかりに、肥満体となっていた少年である。
子供たちを肉体労働から解放し、より良質な住環境へと移すという方針に偽りはなかったらしい……少なくとも、あの肥満体の少年に関しては。
少年は口先では遠慮していたものの、結局はカティーが用意した食事を存分に楽しんだのだろう。台所から戻ってきたのは相当に時間が経ってからのことであった。カティーは随分と嬉しそうな声色になっている。
「喜んでもらえたようで、何よりだわ。お口に合わなければと心配してたのだけれど。」
「あんなに上等なもの、生まれて初めて食ったんだ。他の皆も、好き嫌い関係なく食っちまうだろうな。俺以外の連中も、この街で暮らしてるんだろうか。」
「えぇ、この街の人たちは優しい方ばかりよ。もう、あなたたちに無茶な労働をさせないように、幸せな暮らしを用意してあげているはず。そうそう、あなたにも紹介しておきたい子が居るの。」
ついでのように存在を思い出されたハリコの部屋の前で会話と足音は止まり、ハリコが寝かされている部屋の扉が開かれる。
ハリコの聴覚と記憶に間違いはなかった。カティーの後について入ってきたのは肥満体の少年であり、彼の顔にはハリコも十分に見覚えがあった。
当の少年の方は、まず両手両足の無い存在がベッドに寝かされている様にギョッとしたらしく、その正体が一度会った事のあるリズァーラーだと気づく余裕もないらしい。
「えっ……。」
「あら、驚かないで。ごめんなさいね、せっかくお食事を気に入っていただけた後で。けれど、これから一緒に暮らしていく家族なの、きちんと紹介しておかなくちゃと思って。」
「……わ、分かった。」
少年は部屋の中を見回すふりをして、ハリコの姿から顔を背ける仕草を誤魔化している。
その傍ら、カティーは加湿器タンクの水量を見て、ついでハリコの肌に触れ、リズァーラーに必要な湿度が保たれていることを確認して頷いていた。こういった、世話に当たる動作をしている間、彼女は実に満足げであった。
世話されている側がどう感じているかなど、二の次だったろう。ただただカティーは保護すべき対象を世話する行為そのものに満足を見出しているようだった。
「こちらのリズァーラーさんは、不慮の事態に巻き込まれて、こんな憐れな姿になってしまったの。働くことのできないリズァーラーさんは廃棄処分されることが一般的なのだけれど、それを可哀想だと思った方が危ない所を保護なさったのよ。」
「へ、へぇ……。」
「私は、その保護活動を支援しているの。だから、こうしてウチの屋敷にも引き取ってあげたのよ。ほら、仲良くしてあげてね。」
「……。」
彼らが部屋に入ってきた際に少年の顔をチラと確認しただけで、ハリコはそのまま天井を見つめたまま、沈黙を保っていた。汚れもカビも無い、清潔そのもの、穏やかさばかりを見せかける無機質な天井であった。
視線を逸らしていても、ハリコを見下ろす少年が何かに気づいた感覚は伝わってきた。彼も、流石に至近距離から確認すれば、目の前に横たわっているリズァーラーが変わり果てた姿となっていたとしても、以前会ったことのある存在だと気づけたのだろう。
「良かったわ、あなたが気味悪がってしまうんじゃないかと心配していたのだけれど。リズァーラーさんが助けを必要としてそうなら、手伝ってあげてね。」
「うん、そうする。」
大して汚れも目立たない床を、これまた汚れを吸った様子の無い雑巾で丹念に拭いていたカティーは、黙ってハリコの顔を見下ろし続けている少年の表情の変化にも気づかぬ様子で、部屋から出ていった。
彼女の足音が十分に遠ざかったのを確認してから、少年は声を低めてハリコへと話しかける。
「おい、お前、あの時、発電プラントに来たリズァーラーだろ。」
「……。」
「なぁ、あのオッサンはどうなったんだ。俺たちの労働を監督してたオッサン。何か騒ぎがあったらしいけど、それっきり会えないままなんだ。」
発電プラントにおける任務は、管理局の指示に従わぬ労働監督官を処刑するという指示であった。
ハリコ達リズァーラーは、その命令に背くわけにもいかず、そもそもの元凶であった発電所の所長を糾弾することも出来ず、労働監督官の男を予定通り処刑していた。
その男から食糧を優先的に分け与えられていた少年からは、彼の命を救うようにと懇願されていたのだが、結局の顛末、少年の頼みが聞き届けられなかったことについては伝わっていないらしい。
「俺たちがこうやって上層街に住まわせてもらえてるってことは、何もかもうまく行ったってことだよな?あのオッサンも、ちゃんと助かったんだよな?」
「……ウゥ。」
「そっか、お前、喋れないんだったな。でも、上層街のお医者さんなら、お前を喋れるようにしてくれるかもしれない。その時は、ちゃんと教えてくれよ。」
答えともつかぬ唸り声を上げるしか出来ないハリコに対し、少年はどこまでも楽観的な見通しを述べるばかりであった。
ようやく人生に明るさが開けつつあることを信じたがっている彼の前で、真相を告げられずにいる自分の口を、今ばかりはハリコも有難く思わずにはいられなかった。




