日の目は枠の中、虚構のごとく
ケースに詰め込まれた状態のハリコは、運ばれている間は当然のことながら、周囲の様子を知る術などない。
布に包まれ、厚い梱包材の中に押し込まれ、ときおり地面に置かれる際に伝わる音以外は耳に何も届かない。ただ、運ばれていく最中に、空気が変わった様はおぼろげながら感じ取れた。
「……?」
最下層のブラックマーケットは無論のことながら、貧困な住民が主に暮らす下層街は、独特の緊張感が常に漲り続けている。
誰しもが、いかに過酷な環境であっても生き延びるため、人間らしさを保って暮らしを続けるため、常に油断怠りなく警戒の念を解かないのだ。明確な諍いや抗争が起きておらずとも、地下都市の下層に踏み込んだ者は肌を刺すような相互監視の視線を感じることとなる。
しかし、真っ暗なケースの中に押し込められ、ろくに音も届かない状況に置かれたハリコにも、そんな空気が緩んだ様は伝わってきた。
「……。」
上層街、地下都市の中でも富裕層の市民ばかりが暮らすエリアへと踏み入ったのだ。
下層街との境界を隔てる箇所には頑丈なゲートが設置され、常に複数の警備兵によって封鎖されている。通行を許されるのは、それこそ今まさにハリコの身柄を購入したカティーのような、警備兵を常に随行させられるだけの財力ないし権力を有する人間のみ。
ハリコの身体が詰め込まれたケースを運ぶ警備兵たちにも、下層街を通る際に常に張り詰めさせていた警戒心の緩みが生まれたのだろう。押し込められたケースの中で、ハリコは運び手の歩行によってゆらゆらと揺らされる頻度が増えたのを感じた。
幾度目かの、ケースが地面に置かれる軽い衝撃、そして施錠されていた留め金を外される音が続き、どれほど時間がかかったとも知れない移動時間は終わりを告げた。
「長い移動、お疲れ様。ほら、出てきてちょうだい。今日からあなたはここに住むのよ、気に入ってくれると嬉しいんだけれど。」
カティーは、自分が購入してきたリズァーラーが大人しくケースに収まったままであるのを確認すると、満足そうに微笑み、ハリコの身体を抱き上げる。
もとより小柄で、更に両手足が無いぶん軽くなったハリコは、運動していない間徐々に瘦せ細りつつあることもあって、普段から労働に従事していない女性の腕力でも軽々と持ち上げられる程度の体重になっていた。
「……。」
ハリコは、カティーの腕に抱きあげられながら、あまり表情を動かすことなく自らの周囲を見回す。
今まで自分が住まい、活動し続けて来たのと同じ地下都市内にあるとは思えないほどに明るく、小綺麗で、洒落た装飾の施された部屋だった。
下層街では床の端に視線を向ければ、ほぼ確実に虫や小動物の糞、死体などが見つかるものであったが、掃除の行き届いたこの部屋には全く見られない。清潔な壁面にはカビやホコリなど付いておらず、天井に至るまで継ぎ目なく柔らかなクリーム色の壁紙で覆われていた。
ふかふかした絨毯が床一面に敷かれ、処刑任務を引き受けていた頃は管理官からの指示を受ける際にしか座れなかったソファが、堂々と部屋のど真ん中を占拠している。地下都市における生活にて必須となる灯りは天井から吊るされていたが、今は潤沢な光が窓の外から注がれていた。
「ほら、ごらんなさい。私の屋敷からの眺め、とても良いでしょう。」
「ウ……!?」
カティーに抱かれた状態で、窓際まで寄っていったハリコは、ここに来て初めて驚きの声を上げずにいられなかった。
無論、完全に透明なガラスの板がはめ込まれた窓自体、地下都市では滅多にお目にかからないものである。歪みなく平坦なガラスを形成する技術はごく一部の職人のみが手にしているものであり、そもそもの原材料が地上世界から回収される廃材に求める他にない。
必然的に、ガラスの窓を有するのは富裕層の住宅のみであり、地下都市に暮らす中流以下の市民の住宅では、薄く加工された樹脂版や光をかろうじて透過する廃材が窓代わりに填められている程度であった。下層街にて汗を流す労働者たちの住居には、そもそも窓など存在しない。
しかし、今、希少性の高いガラス窓が存在する以上の光景が、ハリコを驚かせていた。
「この街は、地下都市の中でも最上層に位置するのよ。」
この街の天井部には、地上世界が見えていた。
当然のことながら、地上に露出しているわけではない。地上世界では相変わらず胞子が降り注ぎ続けており、人間が触れればたちまち脳内に入り込んでくる菌糸によって、意思なきままに歩き回る屍と化してしまうだろう。良くてリズァーラー化するばかりだ。
「ふふ、あの上に見える明るい場所、何だかわかる?地上よ。見たことが無いでしょう、地上は照明器具なんて必要ないほど、明るいのよ。」
カティーが得意げに説明する前から、ハリコには分かっていた。
前述の、地下都市においては余りに得難いガラス板がふんだんに用いられた天窓が、この居住区全体を覆っていたのである。枠によって格子状に区切られてはいたが、白く乱反射する光に満たされた空間が、その向こう側に覗いていた。
「ここの工事は大変だったそうよ。岩盤が崩落してこないように鋼鉄の枠で支えながら掘削していって、その枠にガラス窓をはめ込んでいったの。最後に、地上で活動できるリズァーラーさんたちが地上側から掘り進んで、今のようにガラスを隔てて地上の世界が見える街が完成したのよ。」
「ウゥ……。」
地上に降り注ぐ胞子が少しでも漏れ入れば、たちまち犠牲者が出てしまう。そのリスクを鑑みれば大それた工法であり、相当のコストを要する構造であった。言わずもがな、ガラスのみならず鋼鉄もまた、現時点では量産の利かない希少な資源である。
それに、維持するのも困難だと思われた。何せ、仮に地上世界を覗き見れるようなガラスの天窓を設けたところで、胞子がその表面に降り積もればたちまち覆われてしまうだろうからだ。ガラス板がいかに頑丈な枠に填められていようとも、降り積もった胞子の重量で割れてしまう恐れだってある。
そんな疑問をハリコが口に出来たわけではなかったが、カティーはなおも巨大な天窓部分を指さして喋り続けている。
「ほら、見えるかしら。あのガラスの向こう側、地上を動き回ってる影が見えるでしょう。あれが、地上部分の掘削工事を担当したリズァーラーさんたちよ。あの方々が、その後もずっとガラスに積もる胞子を掃除する役目を果たしているの。」
「……ウ゛ゥ゛。」
目を凝らしたハリコの視線の先、確かに天窓の向こう側で動く者たちが粒のように小さく、点々と見えた。
人間に似た姿として目立っていなかったのは、いずれも這いつくばって、天窓に積もった胞子を拭き取る作業を続けていたためだ。
あのリズァーラーたちは地上世界に放り出されたまま……ときおりは栄養分を補給させるために戻されることはあるかもしれないが……ほぼ永久に維持作業に従事し続ける命運を担わされているわけである。
「この街は、リズァーラーさんたちのおかげで完成し、リズァーラーさんたちの働きで、他の上層街にはない明るさを保っていられるのよ。だから私、リズァーラーさんへの感謝を忘れないように、毎日この空を見上げているの。」
チラとハリコが向けたカティーの表情には、何ら取り繕った所などなく、口にした言葉と食い違う思念が読み取れる余地など無かった。
「あなたもいきなり、こんな場所に連れて来られて驚いたかもしれないわね。けれど、分かってくれたかしら、私の思い。少なくともこの街の住民は、リズァーラーさんのおかげで暮らせているのだから、お互いに敬意を払うのが理想の関係よね。」
「……。」
ハリコは、何とも返答しなかった。仮に彼が言葉を話せたとしても、カティーに求められた同意は示せなかったろう。
人間の思惑通りにリズァーラーが扱われているという構図には、何ら変わりはなかったのだ。リズァーラーの立場からは、本来ならば必要のないリスクを負う街の建設を手伝わされ、その後も快適な住環境を維持するために働かされ続け、その上で一方的に望みもしない“敬意”を向けられているに過ぎなかった。
とはいえ、人間の思惑から解放されたところで、生存のために必要な行動も大して無いリズァーラーが自ずから抱く意思など無いことも事実であったが。
「それにしても、感慨深いものね。遥か昔から続く、私たち人類の地下暮らしがいつ終わって、地上の光を拝めるのは何世代先の話になるのかって、皆思い続けて来たのが……こうして、人間とリズァーラーが協力し合ったことで実現するだなんて。」
「……。」
「さぁ、あなたもケースの中に押し込められて揺られ続けて、疲れたでしょう。今はゆっくりおやすみなさい、明日はウチの子たちにも挨拶しに来させますからね。」
"明日"という時間の区切りを、ハリコは初めて耳にした。
地上における昼夜の移行から切り離された地下都市においては、それも労働に明け暮れる下層民たちやリズァーラーの間では、まったく意味を為さない区切りであった。
これまでに感じたことの無いほど柔らかなベッド、清潔なシーツの上に寝かされたハリコは、静かな屋敷内を遠ざかっていくカティーの慎ましやかな足音を聞きながら、窓の外から差し込んでくる光をただ見つめていた。
「……。」
この居住区の天井を覆う格子状の窓の向こう側に見えた、光に満ちた空間について、カティーに説明される前からそれが地上であると分かったこと。それが今さらながらに、ハリコは不思議であった。
ハリコはずっと地下都市の下層、あるいは最下層で主に活動を続けてきた。ウィトゥスの研究施設のように照明器具で明るさの保たれた空間までは見たことはあれども、自然光に溢れた地上世界など一度も見たことなどないはずである。
眠る必要のない目を閉じて、暫しハリコは疑念を頭の中で巡らせ続け……自分がリラックスした状態で時折得る幻視の光景に、あの天窓の向こう側に見える世界が酷似していることにようやく思い至った。
「ウゥ。」
しかし今、ハリコが先ほど巨大な天窓越しに覗いた地上世界の光は、随分と弱々しく、あの畏敬の念を抱かせる存在を包んでいた光と到底等しくは見えなかった。
何もかもが管理され、統轄された人間の街の中では、それはまるで額縁にはめ込まれた絵画のごとく、現実味を抜き取られた虚構のように映ったのであった。




