善意は常に外から、他人事から
物言えず、ただ唸りを上げるしか出来ないハリコの願いは、暫くの期間、キャシーに届いていないようであった。
キャシー自身、ハリコを孤独の中に放置する他にない状況を、上手く打破する手段が見いだせなかったこともあるだろう。容易でない状況を前に、妙案を思いつくのはいつもウィーパの役割であり、そのプランに従って実働力となるのがキャシーであったのだ。
彼女が出来たことといえば、偶にウィトゥス博士から言いつけられる役目が早く済み、暇が出来た際にハリコを“散歩”へと連れ出す程度のことであった。
「どうだ?この辺りはお前も来たことが無いだろう。直接は見えないが、富裕層しか立ち入りを許されない上層街の匂いが一番濃く感じ取れるんだ。」
「……ウ゛ゥ゛。」
キャシーは、背負っているハリコを気遣いながら……言うまでもなく、背負われている彼の体には、キャシーの体内から突き出した無数の金属片が突き刺さっていた……退屈させまいとあれやこれや話しかける。
彼女がいかに新鮮味のある散歩ルートを開拓しているつもりでも、リズァーラーが他人から見咎められる恐れもなく自由に行動できる範囲は、ほとんど闇に閉ざされた排水管の内部に限られていた。
それはリズァーラーにとって居心地の良い環境ではあったが、どこまで歩こうとも全く変わり映えの無い光景であることには違いなかった。
「ほら、お前も養分液を吸っておけ。私に与えられた分だが、一部を分けてやろう。」
「ウゥー……。」
ときおり、出かけ先から戻ってきたキャシーは、ハリコの目の前に、縁の欠けた器へ注いだ養分液を差し出してみせた。
むろん、リズァーラーとしての活動を停止せずにいるためには、定期的に体外からの養分摂取は不可欠である。が、どうにか頭を持ち上げ、器の中の液体に口先を浸してみても、ハリコの身体はそれをあまり吸収しなくなっていた。
ほとんど動くことなく、暗がりのなかに転がっているだけの物体同然の暮らしを送っていたのだから、消費した栄養分も少ないはずであった。そんな様子を離れて見つめながら、相棒のウィーパはキャシーを窘める言葉を投げかける。
「キャシー、彼に養分液を与える必要はありません。」
「なんてことを言うんだ、コイツが飢えて渇いても構わないというのか!」
「飢えてなどいません、あなたの身勝手な親切に付き合わされているだけです……必要も無いのに、施しを受けさせられる立場を、少しは想像してあげられませんか。」
そう言われたキャシーは、すぐに言い返せなくなっていた。
自分が間違ったことをしている、とはすぐに認められずにいたものの、無理のある状況に自分とハリコは陥りつつあることは自覚せざるを得なかったのだろう。
自分の頭を首の力だけで持ち上げ続けるのに疲れたハリコが、顎の先で器を押してカランと音を立てる。
キャシーが与えた養分液は、ほぼ吸収されないまま残され、床に零れていた。
「……じゃあ、どうすればいいというんだ。どんな風に面倒を見れば、コイツを救ったことになる?」
「キャシー、何度も申し上げている通り、自ら動く機能を失ったリズァーラーは、この世界にて担える役割などありません。何もできません、どうすることも出来ません。」
「それでも……私は、私と同じリズァーラーが、ゴミのように捨てられることを、認められはしない!」
「本気でそうお思いなら、新たな道を探るべきです。現状維持は、何の解決にもなりません。」
ウィーパから突きつけられた正論を前に、キャシーは長らく沈黙していた。
彼女が現状の打開策に至るまで、また相応の時間が必要だった。その間、ハリコは孤独に忘れ去られる不安の中で慄き続けるか、稀に戻ってくるキャシーに背負われて、散歩とは名ばかりの排水管を辿る作業に付き合わされる以外に時間の費やしようもなかった。
科学者ウィトゥスの直属にて働くキャシーたちには、情報を得る機会も少ないわけではない。実のところ、この排水管の片隅に放置されているハリコに、新たな扱いを与える算段を見出していなかったわけではないらしい。
ただ、キャシーの中で、それを実行に移す踏ん切りがつかない時期が長かっただけのようだ。それと知れたのは、もはや何度目のこととなったとも知れぬ“散歩”の時間のことであった。
「なぁ、ハリコ……上手く行けば、の話なんだが。」
「……?」
そのころには、ハリコは唸り声すら滅多にあげなくなっていた。言葉を発せぬ口とはいえ、コミュニケーションの必要性さえ失った今、彼の体の器官はそのまま退化していくようにも思われた。
そんなハリコからの反応にも慣れてしまったのか、キャシーはほとんど独り言のように喋り続ける。
「お前を、上層街に住まわせてやれるかもしれないんだ。その、当たり前のことなんだが……富裕層に飼われる、リズァーラーとして。」
「……。」
飼われる、というのは比喩でも皮肉でもなく、純粋にそのままの意味である。
地下都市の社会構造において最下層に位置付けられ、蔑まれるリズァーラーであったが、生存するだけであれば食糧もほぼ必要とせず、既に死んでいる体ゆえ滅多なことでは活動停止状態に陥らないだけに、一部の好事家がペットとして所有するケースもないわけではなかった。
どのような扱いとして迎えられるかは、完全に購入した主の裁量次第であったため、管理局の下で働き続けることこそがリズァーラーにとって最も安定した道であることに違いはなかったのだが。
「私もさすがに、分かったんだ。ただ暗い所に放置されて、時々私に背負われて、ウロウロするだけの暮らしなんて……お前は望んでいないって。」
「……。」
ハリコは、四肢を失った体である。富裕層の家に貰われて行っても、家事の手伝いや下働きの役にも立たない。
新たな決断を下すことは、キャシーなりに苦渋の選択であったろう。
「調べたんだ、リズァーラーの身柄が取り引きされる場所、日程……その中に、慈善事業としてリズァーラーの立場向上に努めている団体が絡んでいることを、知った。……彼らもまた、私みたいな……身勝手、かもしれないが。」
「……。」
リズァーラーたちが蔑まれていることには、貧困層の人間たちよりも下の地位が存在することを示そうとする統治側の意向もあり、単純に民度や倫理観の問題ではない。
それゆえに、リズァーラーの立場向上を存在意義として掲げる団体が存在することは……それも、切実に生存しようとする必要のない、余裕ある富裕層の中に存在することは、どこか間の抜けた雰囲気を伴っていた。
「彼らに拾ってもらえれば、こんな窮屈な場所で寝転がっているだけの日々じゃない、もっと有意義な時間の過ごし方を得られるかもしれない。けれど……許してくれ、そのためには私はお前の身柄を、売る必要がある……。」
「……。」
なんと言って謝罪されようとも、ハリコは自らの意思を表明する必要性など、もはや感じていなかった。
そもそも自我の意識など希薄なのが、リズァーラー本来の姿であったが。
「本当に、悪かった。勝手にお前を救い出して、また私の身勝手で、売りとばすような真似をして……。」
「……。」
それを最後にキャシーは黙りこくって、いつもハリコを横たえている排水管脇の小部屋へと、ハリコの身体を背負ったままに戻っていく。
ハリコがその身を今まで見たこともないほど上質な布で包まれ、頑丈なケースの中に詰め込まれて蓋をされたのは、それから間もない頃のことであった。




