従えば官軍、たとえ己が欲の上であっても
財布を渡された男が戻ってくるまで、大司教とボディガード達に囲まれ、待ち続けるリズァーラーたちは静寂に包まれていた。
先ほど聞き込みを行っていた時のブラックマーケットは、種々の人間たちがせわしなく行きかい、喧噪にあふれていたのだが……大司教の率いる一団がそこに居るだけで、一帯は死んだように静まり返るようであった。
「そうだ、このあと古物店にも寄りましょう。地上世界から回収した古酒があれば、私が来るまで取っておくように伝えてありますから。この一仕事を終えたら、キミたちにも振舞ってあげましょう。」
「は、ありがたく。」
大司教から声を掛けられ、返答するボディガードの声だけが響いている。
その表情や内心が全く読めないだけに、大司教の傍について機嫌を損ねぬように振舞い続ける彼らの心労も並みならぬものだろうと思われた。この地下都市の最下層においては、最大の権力者の側近であることが、生き抜くうえで最も安泰な立場であることは間違いなかったが。
大司教はリズァーラーたちの方にも目を向け、彼らの緊迫状態を知らぬ調子で話しかける。
「君たちには、お土産を持たせてあげたほうが良いかな。この地下都市の全てを統治しておいでの管理局に、よろしく伝えておいてもらわなければ。」
「いえ、そんな、お構いなく。」
相変わらず返答できないでいるハリコやマナコの代わりに、ヤキバだけが緊張に顔をこわばらせながら大司教からの言葉に返している。
たった今の大司教の言葉が、自分たちを無事に帰す意思の表れであるとの確信は持てなかった。そもそも既に、四肢を失っているハリコは無事と言い難い姿である。それに帰ったところで、リズァーラーの立場では管理局の職員に直接会うことは罷り通らないだろう。
護衛の一人が顔を上げ、先ほど大司教から財布を渡された男が向かった店の方を指さした。
「大司教様、奴が戻ってきました。」
「ほら、私の信じた通りです。お願いした通りに買い物を済ませ、財布を持ち逃げなどすることなく戻ってきたではありませんか。おぉーい、市民よ、こちらですよ。」
男は大司教の財布を片手に、もう一方の腕に購入を指示された商品のケースを抱えている。まぎれもなく、リズァーラーたちが任務指示書で目にした『危険商品』の入った、厳重に施錠されたケースである。
大司教から呼びかけられた声が届いて、男は全身を震わせた。ただ慄きのためにビクッと反応するだけでは止まらない、凄まじい緊張感と恐怖感に全身を苛まれているような震えであった。
買い物を済ませた後も、財布の中に残っている金額は相当なものだったろう。それを全て自分のものにしてよいと言われているのだから、極貧の人生を歩んできた彼にとってはまさに地獄から天国へ這い上がる望外のチャンスが目の前にあったのだ。
「購入した商品を、こちらに持って来なさい、市民よ。私の言いつけたお遣いは、それで完了です。」
「は、は……はい、だ、大司教様……。」
地獄から抜け出すための道は、しかし底知れぬ恐怖に染め上げられていることには違いなかった。商品を抱えたまま、貧相な身なりの男は大司教の方へ歩いていく。
彼の通り道を作るように居並ぶ、大司教の護衛たち。ここでわずかでも不審な振る舞いをしては、彼らに取り押さえられ、せっかく言いつけ通りに役目を果たした報酬も奪われてしまいかねないだろう。
一瞬で希望が奪い去られてしまいかねない状況での、恐怖と興奮。極限の緊張状態の中、男はどうにか大司教の前までたどり着き、店から購入してきた商品のケースを差し出した。
「こ、こちらに、大司教様、仰った通り、買ってきました……」
「ご苦労様です、市民よ。」
しかし、大司教はそれを受け取ろうとしない。
彼の腕の中には、四肢を失って白い布に包まれているハリコが、赤ん坊のように抱かれている。相も変わらず、人間の持たざる大顎をむき出した状態で、不気味な姿のまま、低く唸っている。
「ウゥ゛ー……。」
大司教が両手の塞がった状態であるならば、他の護衛たちが受け取るのだろうか。
そう考えた男は周囲を狼狽えて見渡すも、彼の差し出す商品に手を伸ばそうとする者はいなかった。
「え、えぇっと……あの、ほら、言いつけられたとおりに、買ってまいりましたが……?」
「はい、買ってきましたね。しっかり、確認しておりますよ。」
先ほどと似たようなことを大司教は繰り返すばかりで、彼自身が購入するよう依頼した品を受け取るそぶりなど見せない。
まるで状況が掴めずにいる男は、商品のケースを差し出した状態であちらこちらへと向き直る。言われた通りにすれば、膨大な額の入った財布を自分のものに出来るという幸運が目前に来ているのに、それが叶う気配が無い。
……ばかりか、背後から寄ってきたボディガードたちが、彼の両肩をがっしりと掴んで拘束した。男はいよいよ気が動転し始める。
「あ、あっ、あのっ、大司教様?俺は、ちゃんと、言われた通りにしたはずですが……!?何か、マズいことでも、やらかしちまいましたか……!?」
「いいえ、市民よ。あなたは確かに、私のお願いした通りに、その商品を購入してきました。」
言いながら、大司教は自分の腕に抱かれたハリコへと視線を向ける。
あまりにも生暖かく、純粋な慈愛に満ちた眼差しを浴びて、気味悪さの極致に達したハリコは不愉快そうな唸り声とともに顔をそむけた。
「ウァ、ウアァ゛ー……。」
「ですが、私ではなく、管理局の意向によると、その商品の購入は禁じられているのだそうです。購入した市民を、処刑しなければならない、とお達しが来ております。」
「……えっ、えっ?」
男は足元に、先ほどまで抱えていた商品のケースを取り落とす。
硬質の重い音が周辺に響いたが、ケースには傷ひとつついた様子が無い。むしろ、地面を覆っていた舗装に軽くヒビが入ったほどであった。
大司教のボディガードたちが、もはや逃げ場のない男の身体をガッシリと拘束している。その場へ、牙をむきだしたハリコを赤ん坊のように抱えて、大司教が近づいて行った。
「哀れな市民よ、私はあなたに感謝しているのですが、冷徹なる管理局は法の遵守を求めるのです。」
「……い、いや、嫌だ、だ、大司教様!大司教様は、俺たちみたいな連中を、管理局の横暴から守ってくれるんじゃ、なかったんですかっ!?」
「えぇ、もちろん守ってあげますとも。あなたは、あのまま放っておかれては飢餓の中、力尽き、地獄の道へと落ちていたでしょう。ですが、私が祝福を施した、この子羊によって、天国へと導かれることとなるのですよ。」
「ウゥ゛、グルル……」
言いながら、大司教は愛おしく抱いたハリコの身体を軽く揺さぶる。彼が言うところの『子羊』に擬えられたハリコは、ますます不服そうに唸り声を上げていた。
とはいえ、自分たちがたちまち返り討ちに遭う相手ばかりに囲まれた中、明確に処刑しても構わない対象が近づいてくることは、魅力に違いなかった。大司教の大司教の護衛たちに取り押さえられ、身動きできない男の首筋を前に、ハリコは大きく牙の生えた顎を開く。
「い、嫌、嫌だ……た、助け……」
一方の男はたしかに、あのまま放っておかれても遅かれ早かれ飢え死にしていただろうことは事実だった。
しかし目の前に希望をちらつかされた直後の仕打ちとして、この処刑は余りにも強い絶望感を伴うものであった。
「た、助けて、助けてくれっ!こんな死に方、嫌だ、嫌、死にたくない、助けて、離せ、離しやがれっ!!」
「お行儀よく、私の祝福を受け入れなければ、神の元へは向かえませんよ。さぁ、我が子羊よ、この者を神の御許へ。それが管理局から課せられた役割でしょう。」
「ガルルルゥ゛……!」
いよいよ獰猛な唸り声を上げ、そしてハリコ自身も四肢を失ったことで相応に養分を欲していたこともあり、大司教が彼の身体を抱えて差し出すと同時に、無防備な男の首筋へと勢いよく噛みついた。
噴き出し、なだれ落ちる鮮血。男の絶叫が響いたが、大司教の護衛たちが固めた周囲は野次馬一人おらず、静まり返ったままであった。
それはブラックマーケットの住民たちにとって、大司教が単に自前の暴力で成り上がった支配者ではなく、管理局からの意向を委ねられる正式な統治者としての立場を得たことを、この上なく明確に示した瞬間でもあった。




